Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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☆サンティアゴへの巡礼☆(2008.08.12)


圧倒的な威圧感をもって人々に拝跪を促す

夏8月、イスパニア・ガリシアの地に足を踏み入れた。ここの心象風景はフランス・ブルターニュ地方と共通するものがある。目的はカソリックの3大聖地のひとつ、スペインの北西サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼(他の2つはエルサレムとローマ)。そこから地の果ての岬フィニステレまで足を伸ばした。

Cabo Finisterre (フィニステレ岬)
荒涼とした、何もない断崖絶壁。
ふきっさらしの冷たい風が命のエネルギーまでも奪い去っていく。修行を終えた宗徒たちを迎え入れる、暖かい部屋と温められたスープはまだ先にある。ここからが肝心、気を抜くな、といわんばかりに。

巡礼 Pilgrim。
1620年、Pilgrim Fathers(巡礼始祖)と呼ばれる102人のPuritan(清教徒)たちはAnglican Church(英国教会)の迫害を逃れてマサチューセッツ・プリマスに上陸した。なぜそれが巡礼なのだろうか?
Destinyとは運命であり神意であるという、そしてDestinationは目的地であり行く先。神が定め給うた約束の地である。

そうか、巡礼の中身が違う。西洋と日本では。

西洋では、ただ一つの聖地を目指して信徒たちが結集していく観がある。 道の中途に点在する修道院こそ、切り立った崖の上にあったりするが、ほとんどは乾いた平原の中の一本道を、ひたすら直線的に聖地をめざして歩いていくのである。
なぜなら、それは神との約束であり運命であるから。。。

日本の巡礼は、大和古寺巡礼とか四国88ケ所札所巡りに見られるように、ある一定の地域にある寺社をぐるりと巡る。熱心になればなるほど、何度もぐるぐると円環を巡る。まるで輪廻転生のように。
寺社の静寂は山中に似合い、平野のそれは清雅にたたずむ。空気は湿って動物や植物の生命の匂いに充ちている。なぜか懐かしい。

一神教と多神教の違いもあるのかもしれない。
巡礼とは人生にしかり。最終目的地への到達に一番の意味があるのではなく、歩いていく修行それ自体にこそ意味があるのだと思う私は、やはり東洋的パーツから成り立っているのであろう。


私が惹かれるのは、なぜか死の匂いのするものばかり。


お昼のミサは巡礼者でいっぱいになる。
天界の歌声に癒される。


大聖堂に接するキンターナ広場。
ここはかつて埋葬地であった。要するに巨大な
『死者の空間』である。
今は静謐な空気が頬をなでるのみ。

 
“死の海岸”沿いのひなびた漁港の教会。
ここのキリストの像の髪の毛は本物なのか、凄みがある。


“それ”が何に使われるのか、正解を聞くまで、
勝手にいろいろと想像した。
教会の近くにもよくある、十字架つきなもの…

 
闇は余計な情報をシャットアウトしてくれる。
心を澄ませて自分の躯も同じ空間に溶け込ませてみる。