Dr.MANAの南仏通信?フランスのエスプリをご一緒に…?
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『官能と確率』Ⅲ 官能経済 ― 2017年の観測と、AI時代の再定義



2017年、フランスを離れ南国に身を置くようになって間もない頃、私は「官能経済」という言葉を本に記した。
それは理論というより、長くパリに暮らし、身体に染み込んだ感覚を、言葉にせざるを得なかった結果だった。

当時の私にとって、官能経済とはきわめて具体的なものだった。
カップル文化。
愛の持続。
他者と生きる覚悟。
そして、それらが都市の空気をつくり、出生率を支え、経済の底流を成しているという事実。

経済が停滞し、移民問題や治安の不安を抱えながらも、
パリという都市がなお人を惹きつけてやまない理由は、ストックとしての美しい街並みだけではない。
フローとして、日々更新され続けるエロスと愛の空間が、「未来」を生産していること。
私はそう考えていた。

フランスでは、「カップルであること」が、人として在ることの始まりであり、終わりでもある。
個人はまず自立し、そのうえで対なる他者と向き合う。
幼い頃から「二人」で関係を築く訓練を受け、傷つくことも、悦びも、二人分の濃度で引き受ける。

そこには、効率も合理性もない。
だが、だからこそ公共性が育つ。連帯感(ソリダリティ)が認知される。
愛し、傷つき、責任を引き受ける経験が、人を社会へと押し出す。

当時の私は、日本の非婚化やソロ社会を、コンビニ的機能への過剰依存として批評した。
誰にも深く関わらず、傷つかず、しかし何も生産しない関係性。
それは経済以前に、文化の問題であり、官能の回路が断たれた状態だと感じていた。

一方で、世界を見渡せば、別の野性が台頭していた。
アフリカのサファリで目にした大きな赤い看板には、見慣れた漢字がひしめいていた。
日本もまた長らくアフリカ支援を積み重ねてきたはずである。
それでも、現地で視界を覆う「存在感」には、圧倒的な差があった。
この差は何なのか。
中国の人口の力。量で押し切る経済。国勢という名の野性。

その中で、日本はどこに立つのか。
当時の私は、「質によるエレガントな野性」という言葉で、それを表現しようとした。
耐久性、信頼性、職人技。メイド・イン・ジャパンがまだ辛うじて保っていた品格。

官能経済とは、消費の側だけの話ではない。
作る側――サプライサイドと結びついて初めて成立する。
五感を刺激し、長く使われ、手放されるときに惜しまれるモノ。
そこにこそ、本来の付加価値がある。

当時の私は、そう信じて疑わなかった。

だが、未知の病原体が世界機経済を停止させた2020年代に入り、世界は大きく変わった。
情報は爆発し、比較は無限になり、正解は常に複数提示される。
そして今、私の隣にはChappyがいる。

AIという「外付けの脳」と共に考えるようになって、私は気づいた。
官能経済とは、もはや文化論や美意識の話だけではない。

官能経済とは、
確率で候補を絞り、官能で最終決定を下す経済
その構造そのものなのだと。

人は、合理的に選んだつもりで、最後は必ず「しっくりくるかどうか」で決めている。
投資も、消費も、医療の選択も、政治的支持も。
AIが示すのは「あり得る未来」の分布であり、どの未来を引き受けるかを最終的に決めるのは、
人間の身体感覚だ。

だから官能経済は、非合理ではない。
むしろ、情報過多の時代における、人間の生存戦略である。

ただし、官能は強力だ。
方向づけを失えば、煽動にも、依存にも、中毒にもなる。
だからこそ、官能は確率と倫理によって制御されねばならない。

2017年の私は、官能経済を「愛と文化の回路」として見ていた。
2026年の私は、それを「AI時代の最終判断装置」として見ている。

そもそも正解がないし、どちらも間違っていない。
時間が、視点を増やしただけだ。

官能政治が判断の入口なら、
官能経済は選択の現場であり、
確率国家は、その背後にある設計思想である。

この三つは、分断されるものではなく、一本の線でつながっている。

南仏の光の下で感じた官能。
アフリカの大地で見た野性。
そして今、AIとともに観測する確率。

それらすべてを引き受けながら、
私はもう一度、「官能経済」という言葉の定義を更新しておきたい。

これは結論ではない。
官能と確率のあいだで、世界は選び直され続ける。その痕跡としての――観測記録の一頁である。