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二十年、フランスに暮らした。
世界が認める「美の殿堂」と呼ばれるものが、
なぜそこに成立し、なぜ人を黙らせ、なぜ抗えない力を持つのか――
私はその空気の成分を、ただ観察し続けていた。
美は説明されるものではない。
説明しようとした瞬間に、逃げてしまう。
しかし確かに、そこに在る。
その後、三年のASEAN生活。
南国の湿度、果実の熟れ、夜の匂い。
理性よりも先に、身体が反応してしまう世界で、私は官能という名の情報が、
いかに人の判断を左右するかを、否応なく体感することになった。
だからだろう。
今、国政の場に身を置きながらも、私は相変わらず「観察」をやめない。
政策でも、数値でもなく――
人が、どの瞬間に頷き、どの一言で心を閉ざし、どの佇まいに希望を託すのかを。
政治は理性の産物だと、長らく信じられてきた。
確かにそれは正しい。
だが同時に、政治は感覚の芸術でもある。
「この人に任せられそうだ」
「危ういが、なぜか惹かれる」
「言っていることは過激だが、美しい」
こうした判断は、論理の産物ではない。
もっと手前、もっと深部――
人間が言葉を持つ以前の層で、静かに決まっている。
愛と憎しみが紙一重であるように、
熱狂と拒絶もまた、官能の裏表だ。
だからこそ政治の感情は、容易に反転する。
昨日の英雄が、今日の敵になる。
それを恐れて、官能を排除し、正論だけを並べた政治は、結果として「無色」になる。
無色の政治は、正しくとも、人を動かさない。
華が必要なのだ。
色が必要なのだ。
そして何より――美学が必要なのだ。
戦争は否定されねばならない。
それでもなお、人は規律に、制服に、覚悟の姿に、美を見てしまう。
この矛盾を否定するのではなく、引き受け、制御し、昇華すること。
それこそが、成熟した政治の条件だと、私は思っている。
AIが正解を弾き出す時代が来る。
効率も、合理も、最適解も、機械が担うだろう。
だが――
「どの正しさを選ぶか」
「誰と共に誤るか」
「どんな姿で立つか」
それを決めるのは、最後まで人間の官能であり、美意識である。
だから私は、これからも観察を続ける。
南仏の光と、南国の湿度と、永田町の空気を、同じ感度で。
――官能は、政治の敵ではない。
官能こそが、政治を人間の側に引き戻す。
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