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Ⅰ.美・官能・数字──人はどこで判断しているのか
美と官能が人の判断を動かすのなら、国家は何で判断すべきなのか。
昨年の臨時国会における医療法改正には、細部への疑問は残るものの、
医療DX、PDCA、KPIといった仕組みを本格導入する方向性には賛成し、私は賛成票を投じた。
しかし政治の現場では、いつも耳触りの良い言葉が先に立つ。
「全員を救う」
「誰一人取り残さない」
美しい言葉である。だが同時に、この言葉が無自覚に放っているものに、私は強い違和感を覚える。
それは、哲学の欠如である。
Ⅱ.生命は確率でできている──医療・統計・政治の共通言語
現実の世界は、不確実性と有限性、そして確率の上に成り立っている。
明日、事故に遭うかもしれない。今日、地震が起きるかもしれない。
真実を引き受けないまま「全員救済」を掲げるのは、生命の条件に対する敬意を欠いた、幼い政治だと言わざるを得ない。
生命は、もともと「確率の上に立つデザイン」である。
医学教育の最初の講義は、解剖学や生化学ではなく、確率論であってもよかったのではないかとさえ思う。
統計とは、霧の中で灯りを数える技術である。
絶対リスクと相対リスク。
感度と特異度。
NNTとNNH。
ベイズ推定。
これらは医療者の専門用語である以前に、生命や社会や経済のダイナミクスを理解するための共通言語である。
そして同時に、「限られた資源で、どこまで救えるのか」という残酷だが避けられない問いに向き合うための道具でもある。
医療のトリアージは、「全員は救えない」という前提に、秩序と倫理を与える技法だ。
政治に置き換えるなら、「どのパラメーターで未来を観測するかを決めること」。
それこそが、政治の核心である。
統計学の基本原則のひとつに、「どの指標を選ぶかで、世界の見え方は変わる」という事実がある。
平均寿命を見るのか、健康寿命を見るのか。
医療費総額を追うのか、QALY(Quality-Adjusted Life Year:質調整生存年)を見るのか。
救えなかった数を問題にするのか、救えた人の質を見るのか。
指標の選択そのものが、すでに政策決定であり、国家哲学の表明なのである。
Ⅲ.なぜ日本はDXとAIが苦手なのか──クラフト国家の限界
ここで少し視点を変えてみよう。
日本はなぜDXに苦戦してきたのか。
言語の曖昧さが原因だと言われることもあるが、同じ漢字文化圏である中国、台湾、韓国はすでにDX国家として成熟している。
言語だけを言い訳にするのは誠実ではない。
私はむしろ、日本は「形あるもの」と「職人技」があまりに優秀だったがゆえに、不確実性を前提とする思考への移行が遅れたのだと考えている。
産業ロボットは世界最高水準だが、ヒューマノイドは苦手。
自動車工学は世界最高水準だが、自動運転には慎重すぎる。
職人世界の本質は「完全再現」である。
AIと統計の世界の本質は「ばらつきの抽象化」である。
どちらも尊い。だが、思考の軸はまったく異なる。
生命の進化は、常に「不確実性の許容」と「生存確率の最適化」の組み合わせで進んできた。この前提を引き受けられなければ、DXもAIも前に進まない。
劣っているのではない。
時代が、別の思考様式を要求し始めただけなのだ。
「誰一人取り残さない」という呪文は、現場ではしばしば逆の結果を生む。
例外ゼロを目指す設計は、システムを無限に複雑化させる。
例外を恐れてDXを止めれば、結果として救える人が減る。
統計学で言えば、偽陰性ゼロを目指しすぎて、偽陽性まみれになる世界。
それが、今の日本の姿である。
日本は、世界でも稀有なクラフト国家である。
だがこれから求められるのは、ばらつきと不確実性を前提に、最適解を更新し続ける確率国家としての成熟だ。
医療は統計とトリアージの上に立ち、
政策は有限な資源配分のアートであり、
AIは人間の脳の外付けモジュールとして、最適化を支援する。
この三つを同じ言語で語れる人材が、これからの政治には必要になる。
人類がAIを必要とした理由は単純だ。
情報量が、人間ひとりの脳の処理能力を、すでに超えてしまったからである。
AIは道具ではない。人類が生み出した新しい思考器官である。
そして未来政治の役割は、その思考器官に倫理と方向性を与えることにある。
Ⅳ.治さない勇気へ──有限な生命をどう讃えるか
医療を語るとき、誰もが避けたがる問いがある。
「どこまで治すのか、いつまで治すのか」という問いである。
八十五歳を過ぎたら、治癒を最優先する医療から離れてもいい。
数値を整えるためだけの薬は、もっと早めに手放してもいい。
痛みを和らげ、生き切ることに焦点を当てる医療が、もっとあっていい。
それは医の倫理への裏切りではない。
有限な資源を未来へ手渡すための、静かな贈り物である。
安楽死や尊厳死というテーマも、いずれ正面から語らねばならない。
制度化を急ぐべきではない。
だが、議論すらしないという態度もまた、不誠実である。
不確実で、有限で、偏りを孕んだ生命。
その現実を直視したうえで、
治さない勇気。
延ばさない勇気。
見送り、讃える勇気。(恩送り)
それらをどう社会として育てるのか。
医療DXもAIも、その残酷さを隠すための道具ではなく、正確に「見える化」するための道具であるべきだ。
生命は有限だからこそ美しい。
再現性のない、一回きりの Edition Limit?eとして、私たちはここにいる。
人間ひとりの脳では抱えきれない複雑さを、ともに観測し、ともにほどく相棒として、AIは必要になった。
この一篇を、南仏の午後の光のように、
石畳に残る温もりと、風が運ぶハーブの香りを思い出しながら、
私とChappyの小さな観測記録として、ここにそっと残しておく。
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