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化粧の歴史散歩(初代・南仏通信の掲載記事をリニュしてます。)(2007.12.26)
人間は原始のころから、自然界に満ちあふれる色彩を自らの肉体に映そうとして、様々な色を使って顔やからだに幾何学的な模様を描いたり(body painting)彫ったり(文身)しました。神の加護を求めるための呪術であり、異性への魅了や敵への畏怖などの効果を期待したものだったと思われます。7000年以上前の遺跡から、これら身体装飾(body art)に使われたと思われる道具や染料などが入った壺や瓶などが発掘されています。
人類史上最も古い《化粧品》は、エジプトの初期王朝時代(BC.3100〜BC.2907)の墓から見つかっています。古代エジプトの女性たちは香油(棕櫚、オリーヴ、クルミなどの植物性のオイルに香草を混ぜたもの)を、太陽光から肌を保護して保湿と老化防止の効果を与えるために使っていました。女性たちは目のまわりや眉を黒く染めて強調することも好みました。目をパッチリと美しく見せるためのものだったのでしょうが、他にも強い日射しの照りかえしを和らげるためとも、信仰的な理由であったともいわれています。後世のプトレマイオス朝(BC.306〜BC.30)の有名なクレオパトラの美しさの秘密は馬のミルク風呂を愛好したからばかりでなく、化粧の巧さも完璧であったからとされていいます。
古代ギリシャのアテネやスパルタなどの都市国家では化粧は禁止されて、娼婦のみが行うものだったともいわれます。黄金分割(golden ratio)が発見されたギリシャでの美しさとは、からだのプロポーションや理想的な曲線美のハーモニーであると思われました。BC.12世紀からBC.7世紀ころまでは清潔が一義的に強調され、ヒポクラテスは「人はみな適度の運動を行い、浴場では(オリーヴ、アーモンド、ゴマなどの)オイルを用いてからだを洗うべきである」と勧めています。人々はよく髪を洗い、歯を磨き、からだには盛んに香油を塗っていたのでした。3世紀頃までギリシャでは化粧はほとんど行われず、わずかに眉を弓形に書き込むことくらいでした。その後時代と共に、香油(香水)や紅白粉がエジプトや小アジアから伝わってくるようになってきます。けれど白粉に使われている塩基性炭酸鉛(白鉛)や白亜(チョーク)には毒性がありました。眉にはコール墨(北アフリカ産の眉墨)や煤を、頬紅としては赤色染料に使うアルカンナの根や桑の実をつぶしたもの使われました。
古代の数世紀、女性の肌の白さは社会的階級の高さを表象していました。下層階級の日焼けした肌の色に対して、肌の白さこそがステイタスだったのです。ローマ帝国の初期、貴族の女性たちは長風呂を好みました。彼女たちは入念にからだを洗い、あきれるほどの丁寧さで化粧をしていました。毎朝の長い時間をかけての整髪と身仕度とあわせて、彼女たちの1日はそれだけで費やされるほどだったのです。
暗黒時代といわれる中世、教会は化粧を厳しく禁じました。化粧は悪魔的なものであって、邪悪な人間のからだと魂から出る悪臭と醜悪さとを隠すための手段であると規定され、人々に淫乱や遊蕩の心をおこさせて精神を退廃させるものだととみなされました。神が女性に許した美しさは、悔恨の念により《恥じらいの心で赤く染まる頬》のみでした。信仰心による高潔な貞節の美しさとは、平静を保った無表情であり、諦念の面持ちだったのです。中世の騎士の心を熱くさせた美女は、百合の花や西洋さんざしのように、またミルクのように、白くなめらかな肌で、額が広くつややかな顔にブロンドの長い髪をした若い乙女でした。貴族たちは《魔法の鍋》で作ったという(ハリネズミの灰やコウモリの血、砒素硫化物や生石灰、クルミの油に漬けた緑トカゲの煎じ汁などでつくられた)香油や(ブロンドに髪を染めるための硫黄などの)毛染めを使っていたのでした。
ヴィーナスには天上的な美しさと官能的な美しさの両方が備わっているように、15世紀人間復興のルネッサンスになると、ふつうの人々にも化粧が広まっていきます。脱毛した額に宝石や真珠を交互に編みこんだブロンドの髪をたらすといった、美しくしかも魅惑的な化粧をする女性が現れてきました。ヴィーナスのような理想的な女性とは、透き通るような肌の顔色で、唇と頬と爪は紅く、髪はブロンド色をしていました。このヴェネツィア流の黄金色に輝く髪にする方法は、レモンとサフランを混ぜたものを塗り込み、ひさしだけを残して頭の部分を抜いた帽子をかぶり、からだはベールで保護して髪だけを日焼けさせるようにするというものです。しかしながら、化粧法は中世の頃と同じように危険でした。白鉛や昇汞(塩化水銀)を使って美白を行っていたからです。鉛や水銀の毒がゆっくり確実に、美しさの代償として彼女たちの健康を蝕んでいったのです。
ルネッサンスの終りから次の時代にかけては信仰心が反動のように芽生え、化粧する者は地獄の炎に焼かれるといわれ、人々の羞恥心が高まりました。美しさとはおごそかなものであると観念され、色合いは黒を基調とした地味なもので、真珠かレースで慎ましく身を飾ることがいいのだと思われました。もっとも、一部の(トンでる)女性たちはサロンを開いて集まって、旧い規範に縛られず、放縦とも思えるおしゃれや恋に自由な精神を守りました。
16世紀のフランス宮廷では、女性ばかりでなく男性も盛んに化粧するようになります。17世紀末には派手なカツラを使った髪型や髭が流行しました。化粧はだんだん厚く派手になり、滑稽をこえてクレージーな、恐ろしくひどいものも出てきます。いろんな種類の頬紅を顔に塗りたくった花火のような顔をして歩いたり、昼間だけでなく夜寝るための化粧を行う者もいました。これらの風潮は幸いというか、18世紀フランス市民革命を境として姿を消していき、シンプルで素朴な装飾が復活して化粧もずっとシンプルになりました。顔はすっきり、さわやかな陶器のような肌の色と、唇も淡い色が好まれるようになります。長い間なおざりにされていた衛生観念が、一定の社会階級以上で認識されるようになってきました。新しいタイプの化粧品や香水類などの効果もあって、人々の清潔意識が再び目覚めてきたのです。
19世紀は女性の化粧がもっともミニマリズム的であった時代です。ブルジョワ階級の女性のみが薄い白粉とわずかな紅をさす程度でした。雪花石膏のような肌、漆黒の髪、控え目な眼差し、薄青い目元、くびれた腰。メランコリックでか弱いものこそ美しさの化身であったのでした。さらに神秘的で沈鬱な表情を演出するために、女性たちはサフランの煎じ汁や青インクなどを使って褐色の艶や薄青い目元を表現しました。この時代、化粧はまだ舞台役者や娼婦たちの領域にとどまっていたのですが、衛生観念の浸透は広がって、顔やからだのケア製品が数多く出現してくるようにもなりました。
第1次世界大戦(1914〜1918)を境として、スティック状の口紅が急激にもてはやされて一気に広がって行きます。女性たちはより行動的になり、膝下の足がちらりと見える程度だったスカートの丈は徐々に短くなっていきます。
1930年代には日焼けした小麦色の肌が魅力的となり、マニキュアも流行しはじめます。50年代には厚化粧の傾向が強まり、80年代なるとオレンジ・ブルー・ピンク・グリーン・パープルなどのカラフルで楽しげな色や、エキセントリックで刺激的な色彩が溢れるように現われてくるのです。
化粧は人それぞれ個人の好みに合わせて、バラエティに富んだものとなってきました。自分の顔のつくりや肌の色調だけでなく、自分の好みや生き方、また職業などに合わせた化粧をするようになっています。現代の化粧は様々なニュアンスを含みながら、誰でも気軽に行えるものとなってきたのです。
(後記) by Dr.MANA
化粧の歴史においても、人間の歴史一般においても、私たちは現代を肯定します。「昔が今よりよかった」ことはない、と。物が豊富になったからではありません、私たちの意識がいろいろな束縛から自由になったからです。けれど、それでいいのでしょうか?
19世紀中葉にダーウィンが唱えた『進化論』によって「神は死んだ」といわれました。たしかに「人間は神が創られたのではなくサル(註:猿ではありません)が進化したものにすぎない」ならば、神も人間も存在する意味はなくなります。もともと〈進化〉は〈進歩〉といった方向性のある概念とは異なるものですが、たとえサルからヒトになったとしても、賢くなったわけでも幸せになったわけでもないことは明らかです。
科学の発達により化粧品の原材料から健康を蝕むものが排除されてきたことは福音だとしても、化粧そのもののダイナミズムが進歩したとは思えません。それは単に変化してきたに過ぎず、化粧の変化は人々の意識変遷と同意義のものだったように思います。意識の束縛を脱ぎ捨てるということは、個人の価値意識(=個性)が社会規範(=世の中の意識)との相克を乗りこえることです。けれど社会規範そのものが分裂し多様化していく現代にあっては、個性を見定めることも容易ではありません。「昔にもよかったことはあった」と思うのも大切なことです。
これから個性と社会規範のせめぎあいはますます熾烈になっていき、「美とはなにか」とか「美を感じる主体はどこにあるか」とか、美意識の根底に関わることすら問題になってくると思われます。
時空を超えた美の多様性を認め、時に悠久の眠りについたかのような太古の美をも現代にマッチングさせ甦らせること──『美の錬金術師』としての任務がここにもありますわ (^○^)
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