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京の春 ――― 蹴上の宵と祇園の夜(2022.03.08)
お正月のブログで日野草城(1901〜1956)の元日に詠んだ俳句を取り上げました。彼の俳風は、若年のころは女性のエロスを主題とした無季俳句を多く作り、中年以後では病を得て静謐な詩情に変わったといわれています。54歳の結核死は少し早かったと惜しまれますが、33歳の折に新婚初夜をモチーフとしたフィクション『ミヤコホテル連句』を発表して、俳壇のみならず文芸界に大論争を巻き起こしたことは特筆されます。こんなことに目がない私が、興味をもったことは当然です。
調べてみました。『ミヤコホテル連句』には1934年(昭和9)発表のものと、翌1935年(昭和10)発表されたものの2種類がありました。それぞれは以下の通りですが、後の説明のために(a)〜(m)の符号をつけています。
1934――昭和9年版
(a) けふよりの妻(め)と来て泊(はつ)る宵の春
(b) 夜半の春なほ処女(をとめ)なる妻(め)と居りぬ
(c) 薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
(d) 妻(め)の額(ぬか)に春の曙はやかりき
(e) 湯あがりの素顔したしく春の昼
(f) 失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
1935――昭和10年版
(g) けふよりの妻と泊るや宵の春
(h)春の宵なほをとめなる妻と居り
(i)枕邊の春の灯(ともし)は妻が消し
(j)をみなとはかかるものかも春の闇
(k)うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
(l)湯あがりの素顔したしも春の昼
(m)永き日や相触れし手は触れしまま
よく見ると、同じ情景を詠んだものが3句あります。これらは措辞に違いはあっても詩情は異なりません。むしろ、読み手に余計な負担をかけまいとの配慮かと思われます。たとえば(a)ですが、妻をメ、泊をハツルと読む必然性はなく、そう読むほうが難読となります。(g)の句がスッキリしています。同じように(b)は(h)に、(e)は(l)に書き換えられたと思われます。これらを整理して、両年併せての13句を下記10句として残しました。
(1)けふよりの妻と泊るや宵の春
(2)春の宵なほをとめなる妻と居り
(3)枕邊の春の灯(ともし)は妻が消し
(4)をみなとはかかるものかも春の闇
(5)薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
(6)妻(め)の額(ぬか)に春の曙はやかりき
(7)うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
(8)湯あがりの素顔したしも春の昼
(9)失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
(10)永き日や相触れし手は触れしまま
十句の批評あるいは鑑賞ということになるのですが、俳句を嗜む能力をわたくしが有するわけもなく、一句ごとの解釈をこまかにする力量も備えてません。そこで考えたのは“餅は餅屋”もとい“プロにはプロを”。
連句は「新婚初夜の宵をテーマとした男性の感慨」をフィクションとして表現したものとされています。そうであれば、それぞれの句に対置する女性の思いを、文芸作品から抽出して提示したらどうだろうと思いました。
文芸分野は短詩系であっても俳句よりは濃やかな短歌がいいのではないか。春の宵、京都ときたら、与謝野晶子の『みだれ髪』がいい。発想が膨らんで楽しくなってきました。
俳句と短歌による男女の相聞歌。万葉の昔に歌垣山に集った若い男女の掛け合いみたいなもの。そんなふうにできたらいいなと夢にみて、十句の対としての十首を選びました。
以下、順号のあとに日野草城の「ミヤコホテル連句」を情景の経過に沿っての載せ、次に与謝野晶子の歌は『みだれ髪』の“臙脂紫(えんじむらさき)”から選択して掲出しました。句が男性の思いを詠ったものであれば、歌はこれに応える女性のココロとカラダからの吐露としてセレクトしました。その後は、わたくしが晶子の歌から汲みとった言わずもがなの意訳です。
(1)けふよりの妻と泊るや宵の春
その子はたち 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな
―― わたしは二十(はたち)、櫛を入れれば艶やかに流れる黒髪。
いま、もっとも美しい人生の春を生きているのよ。
(2)春の宵なほをとめなる妻と居り
紫にもみうらにほふ みだれ筺をかくし わづらふ宵の春の神
―― 紫の御召、裏地にあてた紅絹(もみ)。婀娜(あだ)な気持ちを隠した
みだれ筺。それなのにわたしを思ひ乱す、甘い春の宵(よ)の神。
(3)枕邊の春の灯は妻が消し
臙脂色は 誰にかたらむ血のゆらぎ 春のおもひのさかりの命
―― 臙脂色は暗い赤。わたしの中で血が騒ぎ、からだをつき動かすものがある。命のさかり、春の思ひが。
(4)をみなとはかかるものかも春の闇
細きわがうなじにあまる 御手のべてささへたまへな 帰る夜の神
――
かぼそいわたしのうなじに、余りある御手をのべて支へてください。わたし、不安だし怖いんですもの。往かないで、夜の神さま!
(5)薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
たまくらに鬢のひとすぢ きれし音を小琴(おごと)と聞きし 春の夜の夢
―― 手枕に落ちた鬢(びん)の毛ひとつ、その切れた音を微かなつまびきと聞いた。春の夜の夢であったか。
(6)妻の額に春の曙はやかりき
額ごしに暁(あけ)の月みる 加茂川の浅水色の みだれ藻染(もぞめ)よ
―― あなたのひたいの向ふに明け方の細い月、加茂の浅い流れの音、
浅瀬に乱るる川藻のやうな あわい思ひがいたします。
(7)うららかな朝の焼麺麭はづかしく
紫に小草が上へ影おちぬ 野の春かぜに 髪けづる朝
―― 朝紫の緑の草の上に日蔭が伸びて、野をわたる春のやはらかな
風が頬にあたり、梳(くしけず)る髪をなびかせています。
(8)湯あがりの素顔したしも春の昼
みだれ髪を京の島田にかへし朝 ふしてゐませの 君ゆりおこす
―― 寝乱れた髪を京の島田に結った朝、まだ眠りこけていらっしゃる
あなたを、甘えた声で揺り起こしました。
(9)失ひしものを憶へり花ぐもり
うつくしき命を惜しと 神のいひぬ願ひの それは果しえ乱れたて今
―― 美しい命を思い切り咲かせなさいと 神さまがおっしゃった願ひ。
それを果たしえて、乱れ果てたわたしになりましたわ。
(10)永き日や相触れし手は触れしまま
なにとなく 君に待たるるここちして 出でし花野の夕月夜かな
―― なんとなく、あなたが待っていらっしゃるような気持になって、
外へ出て花いっぱいの野をあるいたら、大きなお月さまがポッカリ。
蹴上都ホテル
東海道は江戸日本橋から上ること五十三次にして、京都三条大橋に至る五街道随一の大道でした。第一を品川宿・二を川崎宿・三を神奈川宿とし、十箱根宿・二十鞠子宿(静岡市)・三十舞坂宿(浜松市)・四十鳴海宿(名古屋市)・五十水口宿(甲賀市)ときて、五十一次石部宿(湖南市)・五十二次草津宿(草津市)、最後の五十三次目が大津宿となります。昔の旅人は、京の都を前にして胸高鳴り、よく眠れなかったかもしれません。
大津の宿を出ると、百人一首蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の山を越え、山科の里に下ります。それから日ノ岡・九条山を登って粟田口を抜けたら蹴上(けあげ)。旅人は「おぉ」と目を瞠(みは)ります。眼下には視野いっぱいに広い京都の町並み。あとは真っすぐ降りていけば、双六上りの鴨川三条大橋となります、
いま、その広い通りの北側に華頂山を背にしてウェスティン都ホテル京都が立っています。俳人草城の「ミヤコホテル」はフィクションですが、誰もが蹴上の都ホテルを思い浮かべたはずです。蹴上といえば南禅寺のインクライン、その琵琶湖疎水開通の前日(1890年)に、京都の豪商たちによってこの地に創業したのが遊園「吉水園」でした。吉水園は1900年に客室と食堂を増築して都ホテルとなり、現在も京都を代表する最高級ホテルのステイタスを誇っています(現名称は2002年から)。
『ミヤコホテル連句』は、ミヤコホテルと称することで、読む人にすぐホテルがイメージされ、かつ、新婚初夜を迎える初々しい若夫婦の生まれ育ちや容姿までも連想させることができたと思われます。と同時に、初夜という少し淫靡(いんび)なニュアンスによって、晴れがましさが制約されたとも言えます。
作者は旧制三高から京都帝大、大阪の保険会社でエリート街道を歩みましたが、重役にもならぬうちに病気退職しました。俳人とはいえ生活感覚や生活は、教養エリートらしい謹直さがあったと想像されます。
女性がいいとこのお嬢さんであったとしても、男性がそうであるように女性にも女としての本能の疼きがあり、晶子のようにそれを感得できる人間であるのはごく普通のことなのです。そこに建前を常識とする男性と、自分の感情と肉体の生理を真実とする女性との齟齬があったのではないか
―― そんな視点から私の〈意訳〉を表現してみました。
祇園から清水へ
連句の場所は蹴上のホテル。部屋の窓からは、右に東山の峰々が比叡山に連なり、真下には南禅寺・動物園・平安神宮が並び、その左手に中京から上京の町並みが北山まで広がって見えます。
晶子の歌の場所は違います。どっか一か所にとどまっているわけではありませんが、新婚初夜ではなくとも初々しいカップルの目覚めを歌った(6)の
額ごしに暁(あけ)の月みる 加茂川の浅水色の みだれ藻染(もぞめ)よ
場所は想像できます。
夜明け間近で睦み合う二人がいます。熱戦で窓は開けてしまったのか、彼の背後には明けの月が見え、加茂の浅瀬の音が聞こえます。窓は西に面し、眺められるほどの距離に鴨川が流れているのです。
ほぼ特定できそうです。蹴上からなら三条通りを西に行き、東山三条を過ぎて少し行けば花見小路通りとの交叉点に出ます。ここを左折して南に下がり、若松通り・古門前通り・新門前通りの、通り三つを過ぎて次の交叉点を右折して西に入ります。
すぐに小さな流れがあり、石橋がかかっています。琵琶湖疎水の南禅寺舟溜(ふなだまり)のちょっと下、いま国立近代美術館の対岸から分流され鴨川に注ぐ白川と新橋です。橋を渡って真っすぐの道は新橋花街通りで、左に分かれる流れのそばの道は白川筋といいます。
新橋からいくらも歩かないで「かにかくにの歌碑」があります。「吉井勇全歌集」中『祇園歌集』の冒頭を飾る歌です。
かにかくに祇園は恋し寝(ぬ)るときも枕の下(した)を水のながるる
花街は花柳街とも三業地ともいい、料亭・検番・芸者置屋あるいは置屋・検番・待合(貸席という地方も)の三業種と仕出屋や旅籠などを含めていう場合もあります。吉井勇の歌は祇園新橋あたりの、どこかの待合か旅籠で、詠まれたものと思われます。
時は春、都は花の盛りとなります。最後に与謝野晶子の歌を、もう一度掲げて、春の京都を謳いあげて筆を擱きたいと思います。
清水(きよみづ)へ 祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)
こよひ逢ふ人みなうつくしき
―― 清水観音さんへ、祇園町をよぎって盛りの花の月の下を歩きました。
その春の宵、すれ違う人が皆笑顔に輝いて本当にきれいでした。
やはらかさは強さとなり、美しさは力となる。産寧坂を歩く人々の幸福感がすべてに伝播して美に結実したかもしれませんね。
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