Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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ワンダーウーマン考 その4―女性にとっての最大の武器とは何か?(2018.3.15)

























アメリカの女性たちが『ワンダーウーマン』の戦闘シーンに涙した――というよりも“号泣した”と、この連載〈その1〉(→★)でレポートしました。私も戦闘シーンには興奮しました。テストステロン大放出の「イケ、イケ!」ガールみたいなものでしたけど。
アメリカの女性たちは戦闘シーンに感激しましたが、それに劣らず、男性のいないアマゾン国の、女性たちだけの壮烈な戦闘訓練シーンにも感動しています。私はトレーニング場面では平静でしたよ。そんなところで興奮したら、映画観ているだけで疲れちゃいます。ステーヴを追ってきたドイツ帝国軍と、アマゾンたちとの戦闘場面はイケイケでしたけど。

なぜアメリカ女性たちは訓練シーンに大きな関心と共感を覚えたのでしょうか? そのことを知ることは、私たちと彼女たちとの置かれた状況の違いを、浮かび上がらせることになるのかもしれないと思いました。私たちと彼女たち――日本女性とアメリカ女性との違いは、文化や国民性の相違でもあるのです。
みなさんはAmerican Super Heroにどんなイメ―ジを思い浮かべますか? スーパーマンやスパイダーマンあるいはターミネーター、彼らはすべてムキムキのマッチョです。ナマの肉体そのものがスーパーであるだけでなく、腕力や飛翔力など運動能力も桁違いです。空を飛び、素手でビルだって吹っ飛ばします。
アメリカの原点は新大陸の荒野を開拓した時代。重機なんかありません。まず必要だったのは、男性の頑健な身体と強い力だったに違いありません。
そんな当時の女性はどんな立場だったのでしょう? 西部開拓の原野は男の世界、そんなところにいる女性は希少価値です。表面的には男たちから大事にされたことでしょう。でも存在している役割となると、生活の潤い・快楽の憧憬・賄いや洗濯の世話、挙句の果てが次世代の生産。マッチョの背景には、腕ずくで女性を争ったような、暴力的で動物的なにおいがプンプンです。

Japan as Number One !―かつて、経済的に日本がNo.1になる日が近いと、錯覚していた時代がありました。そのころ日本人の結婚観は「日本人は夫婦の役割分担が明確だから、愛はなくとも結婚生活が維持できる」と自慢し、「アメリカ人はただ愛だけでつながっていると思っているから、肉体的接触に固執し結婚生活も破綻しやすい」と無知を曝(さら)していました。しかし、アメリカで肉体の優位性に関するプライオリティはかなり高いものがあります。
アメリカの女性は、男性と戦わなければならなかったのです。阿(おもね)って保護してもらうことを拒否し、嫌なことに確信をもって「ノォ」と言えるようにならなければならなかったのです。そうしなければ、男性に依存していない、自立した人間になることができなかったのです。

男性と戦う、なにをもって戦えばいいのでしょう? いくら身体を鍛えたって、丸腰に素手で戦うなんて無茶です。女性は天から新しい生命を生み出す力を与えられました。その優れた能力の代償かどうか、ただ一点筋力については男性に優位を譲っています。ワンダーウーマンのような“新しいスーパーヒーロー”が、生まれつきマッチョの運動能力バツグンの“かつてのスーパーヒーロー”たちと同じである必要もありません。戦うための身体の鍛錬は必要ですが、女性が戦うには武器が必要です。人類の叡智の黎明は「道具を使う」ことで始まったといわれます。戦うためのストラテジーとタクティクスにとって、武器の選択は重要な要因です。

武器は剣なのか、それとも銃なのかを訊ねているのではありません。西部劇やヤクザ映画ならともかく、いまどきの人間が銃や刀剣を武器として“戦う”なんてことは皆無といっていいはずです。女性にとって必要な武器は、なによりも知恵や知性なのであり、言論と表現の技術なのです。技術というのは手練手管(てれんてくだ)ではなく、訴える力です。訴える力は正しさの純粋さといってもよく、結果としてともに戦う人々の数とその団結力となります。 女性は女性が足を引っ張り合い、貶し合ってきた長い歴史を持っています。それは弱いがゆえに男性に先を争って阿り、自らだけを生き残ろうとする悲しい事実の裏返しでした。無念なことでした。
自立するのです。自立すれば団結できます。団結して愛のために戦うのです。力の誇示ではなく、知性を武器にして戦いましょう。強要されたセクシーであることの呪縛から解き放たれて、センシュアルに!

話はまだ終わりません。女性の持つ最大の力を発揮しなければいけません。
女性が持つ男性を圧倒的に凌駕する力、それは「美」です。美の暴力性については人類史が証明しています。すこぶるつきの美女を「傾国」と称することはご存じのことでしょう。
クレオパトラも楊貴妃も、絶世の美女たちは幾多の英雄を骨抜きにし、多くの国々を滅ぼしてきました。女性の美が暴力に転化すれば凄まじい力を発揮します。男性の心を奪い取るだけでなく、人間性も富も名誉も権力も根こそぎに地にまみれさせてしまうのです。
茫然自失となって消えた男性たちは膨大な数に上ることでしょう。暴力にすり替わった美は男性への媚態だったかもしれません。けれど、歴史はhistory=his story(男性の勝者の物語)であって、her storyではありませんでした。
これからはきっとHer-storyとHis-storyが混淆する時代が始まります。歴史の舞台に登場してくる美しい野心家の女性たち、女性がみな美しく輝くようになります。

生まれ持って運動神経が発達している人もいれば、努力して獲得する人もいます。
美は多様性です。美しさの取得は誰にでも可能です。何度でも言います。美のキーはセクシュアルではなく、センシュアリティ。そして、それへの“意志”にあります。

パラダイムシフトはすぐ近くに来ています。