Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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エッセイ バックナンバー

ワンダーウーマン考 その3―米vs仏、セクハラ大騒動への私の立場(2018.2.19)



























先に#MeTooのことを書きました。()#MeTooは「わたしもそうだった」の告発です。ハリウッドから始まって、世界を揺るがしているセクシャル・ハラスメント糾弾のビッグ・ウェイヴは、いま#Time’s upのレベルに入ったと言われています。
セクハラへの告発とそれに対する謝罪。今まで何回となく繰り返され、飽きもせずに続いてきたことでしょう。「そんなことは、もう終わりにしよう」――そのために男と女はどう向き合えばいいのか――を考えるのが#Time’s upなのです。世界は女と男の遭遇についてのcommon senseをつくろうとしています。

そんな折も折、往年の美人女優であり社会的にも大きな存在であるカトリーヌ・ドヌーヴやBBの愛称を持つブリジッド・バルドー、それに百人あまりのフランスの有識者マダムたちが異議を唱えたのは記憶に新しいところ。彼女たちは行き過ぎたセクハラ告発を非難し、「男には口説く自由があるのよ」と言うのです。
「膝を触った、キスをしようとした、性的なことをにおわすメッセージを送ったというだけで、名指しされた人が弁明も許されず、社会的に葬られている」。「女性保護や女性解放の名を借りて、ささいなことを悪魔の仕業と言い立てるのは、ヒステリックなピューリタニズム」なのだ、と。
マルチン・ルターがカトリシズムの偽善を告発し、プロテスタントが出現して以来500年余となりました。彼らは、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で説いたように、資本主主義の勃興を担い近代社会の扉を開く核心部分となりました。けれど、その間にルター派やカルヴァン派にイギリス国教会といったプロテスタント諸派は、社会を改革する側から既得権層に変質していたのです。

ピュータニズムが宗教的厳格主義とも訳されるように、ピューリタンはプロテスタント諸派に対するプロテスタントだったのです。17世紀、彼らは王政の迫害を逃れ「汚れた旧大陸と決別して新世界に神の国を造る」ために大西洋を渡りました。それからヨーロッパとアメリカとは、「どちらの文化がより普遍的であるか」を命題として、文明の覇権を争うこととなったのです。
どちらかといえば、ヨーロッパはシニックに、アメリカはラジカルに、社会に対します。まるで、錆びついた時代に固執崇拝する京都と、ひたすら紅毛碧眼を鑽仰する東京との、やっかみと皮肉のあてつけごっこを観るみたいです。

パリのマダムたちは「性的欲求は攻撃的で粗野なものであるのは致し方なく、不器用な口説きと性暴力は同じものではない」、「性的な口説きにノンという自由の裏には、下手な口説きをする自由がある」と述べ、「性の問題は基本的に個人間の事柄で、性犯罪と悪ふざけを一緒くたにするのはおかしい」と言います。
いかにも“フランス人らしい”おとこおんな関係の見方です。けれどこれらの言葉にはフランス料理のおいしい香りは既に感じられません。ドヌーヴさんやBBさん、飛ぶ鳥が後を濁してはみっともないと思います。偶像が壊れてしまったら、悲しいじゃありませんか。

私は自他ともに許すフランス贔屓です。おかげさまでフランス紹介の本も書くことができました。フランス文化とは何かと訊かれたら、美と恋愛をもっとも尊重する気持ちでしょう。フランスの景色は彩り豊かで、空気が透き通っていたように思えたのです。ことにパリは移動祝祭日という表現がふさわしい街でした。
アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェーは『移動祝祭日』のなかで、「もしきみが幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過そうとも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。」(後記参照)と述べています。
青年時代をパリに過ごしたわけではなくとも、私にもパリはついてまわります。いま、日本からもフランスからも距離をおいた場所で生活するようになって、世界が今までとは違った色彩で見えてきました。それでもパリはついてきます、部分的な色彩が淡くなろうとも、彩りの記憶は鮮やかなままなのです。

ドヌーヴやBBの発言は古き良き時代のもの。重厚に積み重なった幾層もの甘い恋愛文化の記憶なのでしょう。女神のように美しかったドヌーヴ、コケティッシュを肉体で表現したBBは、男たちにとって女神降臨そのものでした。もしできたとしても、膝を触る際もそこらのお姉さんのものとは違うに決まっています。女神だった女性たちがセクハラ問題へ意見を述べても、いったい何を代表されているのかよくわかりません。
口説く自由がないとは言いません。しかし、犯罪まがいのセクハラ&パワハラまで「口説きの自由」に含まれるはずもありません。「体に触ったり、キスしようとするのは、愛の表現であり許されるべき」ですって? そんなことをフランスの女性は許してくれると言うのなら、世界中からすけべオヤジが殺到して、パリ行きの飛行機はタイヘンなことになるでしょう。
断固「ノン!」に決まっています。「好きなタイプなら許せるか?」ですか、これはその場で判断しましょう。当たり前ではありませんか、OKとNOは女性の(好きか嫌いかの)主観のみでいいのです。おっと、女にも口説きの自由はあります。その際は口説かれる男性の主観ですけどね。今はLGBTQの時代だから全ての人間を対象にしていいのですが、やはり数万年の歴史的経緯をチャラにしてはいけないと声を励ましたいと思います。

ドヌーヴやBBの意見を、パリマダやパリジェンヌが支持しているわけではないとの情報が入って来ました。それどころかバッシングものだ、という人たちも多いと。
「やるじゃない」と、パリマダの心意気に感激しました。そうだわ、今まで彼女たちが語ってきた――ドヌーヴやBBとあまり変わらないことは、それこそヨーロッパ的シニシズムの慣性の法則からだったのです。真実は「武士は食わねど高楊枝」だったのでしょう。たしかに「愛と恋に生きる」とか「恋愛至上主義」は浮世離れしています。でも時には陰で涙を流しながら、痩せ我慢しても掲げて生きてきたのです。これって、なんというエスプリなんでしょう!
だからこそ、かっこいい。心理的葛藤もなく「口説きの自由」に対してきたのだったら、かくまでのセンシュアリティは滲み出るはずがないのです。そうであるからドヌーブ+BBの主張が急速に色あせてしまったのです。
年齢を重ねたとしても、往年の超美人ほど厄介なものはない。人生経験を積んだ、成熟した人間の発言ではありません。「昔モテモテで、男性にも理解のあるステキな私」をアピールする必然性はなんでしょうか。暴走すると老醜あるいは老残ともなりかねません。

こうした問題は「両方の気持ちもわかる」という、足して2で割るような中庸の立場をとるべきではありません。相殺されて元の木阿弥となるか、あるいはリバースされてもっと悲惨な状況に陥るからです。
ここはラジカルでいい、人類の目醒めは早いほどよい。(すでに十分。遅すぎるほど!)レボリューション、そしてパラダイムシフトを引き寄せるときはもうすぐです。

(後記)移動祝祭日の意味をどう解釈するかは、単純ではないように思います。1899生まれのヘミングウェー作品のほとんどが1920〜30年代に書かれていることや、第1次大戦のイタリア戦線に従軍し『武器よさらば』にもある愛と別れを体験し、1931年からのパリ時代は妻子をかかえた修業時代でもあったのです。パリでは妻との離婚も経験し、青春の愛と苦闘というほど簡単なものではなく、また祝祭の日々であろうはずもありません。『移動祝祭日』は作家の自死のあとに発見された未発表の絶筆原稿でした。捉えかえして考えてみるに値する作品と感じました。