Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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フランス女性から学ぶー女という呪いから逃れる術 “like a girl”(2017.10.17)










“like a girl”はAlwaysのキャンペーンタイトルです。ご存じのアメリカの生理用品ブランドですが、初期のビデオを見る機会がありました。話題になりましたのでもしかしたらご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=XjJQBjWYDTs

「Like a girl(=女の子のように)!」、ディレクターが男も女もいるグループに「走って!」と声をかけます。グループのみんな――男も女も内股でなよなよした走りっぷりです。次は「ボールを投げて!」。肩をまわさない力の抜けた投げ方で山なりのボールをほうるマネです。
「Like a girl!」、次は5歳くらいの女の子たちに声をかけます。女の子たちは手足を振って懸命に走り、オーバースローで力強くシャドウピッチングをしたのです。Excellent ! すばらしいことです。
そうした後の出演者たちのインタビュー。異口同音に語るのは、自分と女の子が一致していた幼い時と、思春期あたりを境として「女の子らしく」という意識が植え付けられて変わってきた自分を感じる、と。
A girlがLike a girlに変わる。ある日、全力を出すのをためらわせる時が来るのです。できないふりをする、周囲から期待される「らしさ」にとらわれて、かよわく全力を出しきれない演技をするようになります。人に嘘をつくのではなく、自分に嘘をついてしまう。そうしたLike a girlの生活に馴染んでいきます。
私も情動失禁しがちな年齢となりましたが、このビデオは他者への同情ではなく自己と同性たちへの憐憫というか、露わに表現しきれない感情が襲ってきて、ただボロボロと涙が流れて収拾に困りました。同時に分厚く目に膠着していた鱗も流れ落ちました。まさに涙デトックスです。
哲学者ジャン=ポール・サルトルの生涯に渡るパートナーで、作家であり哲学者だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールはご存じですよね。彼女は代表作である『第二の性』で“On ne nai^t pas femme, on le devient.(=人は女に生まれるのではない、女になるのだ)”と言い切りました。その通りです、この動画が余すことなく表しています。くどくどした説明は必要ありません。

6月に出版した教育の日仏比較本が、書店の子育てコーナーに置かれているところもあって、育児・子育て関係の書籍を目にする機会が増えました。そこでまだ男の子と女の子を分けて考え、別建てに育てるマニュアルみたいな本もかなり出回っているのを知りました。最近ではスウェーデンでの幼児期からのジェンダーフリー教育の推進を取材した記事が記憶に新しいです。そうでなくとも「ホメる」と「叱る」、男の子と女の子で変えなきゃいけない理由も分からなければ、そうした方が良い根拠も薄弱です。フランスがどうしたではありますが、子育てマニュアル本そのものが希少でもあり、男女別のホメ方なんて聞いたこともありません。“美しくエレガント”に振る舞うように躾けられますが、それは男の子だって同じです。

女の子の好きなことはママゴトと縫いぐるみ、男の子だったら電車と戦争ごっこ。女の子は「服がお似合いよ」に喜び、男の子は「わんぱくだな」にニッコりする。――私だってそんなステレオタイプに育てられてきました。木登りをすると「女の子なんだから、危ないことはやめなさい」。男の子たちと戦争ごっこをすると「女の子らしく、おとなしい遊びをしなきゃだめよ」、「そんなオテンバしてると、お嫁に行けなくなっちゃうよ」エトセトラ。半世紀経ってなにも変わっていないことが驚きです。
ジャングルジムから飛び降りる男の子に「やはり男の子よね」と言うのは、男の子だからわんぱくでいいと考えているのです。女の子が同じこと(冒険)をしようとしたら、眉をひそめられるでしょう。繰り返しまた繰り返し、まわりの反応を体で反復し感じるうちに、女の子は変わっていきます。
生れついての人間が持つ意志ではなく、周囲の期待に応える振る舞いに慣らされて、肉体化し血肉となっていくのです。A girlがLike a girlに変わったら、女の子はオウンリスクを避けて慎重に行動するようになります――だって、そのように育てられてきたのですから。
もっとも、若いお母さんたちに訊くと、最近の男の子の場合はそうでもなくなってきたようです。その昔の戦争に行くとか、行ったからには勝たねばならぬとかの、古い時代スローガンの余燼(よじん)も消えて、野蛮を好しとする風潮がなくなったのでしょう。「わんぱく」や「たくましく」が廃って、今どきは「ナチュラル」だって。これはよいことですね。

私の中学や高校のクラスでは、成績優秀な子となると女子が多かったように思います。それであっても、「世の中の一流人物のほとんどは男性で占められるじゃないか。歴史上の人物だけじゃない、絵や音楽の芸術家だってそうだし、料理人も一流といわれるのはみな男性だ。がんばったって能力的に男性と女性では差があるんだよ」と、叩き込まれて大きくなっていたのでした。
いつしかLike a girlの縄を自分で結って自らを縛り、ガラスの天井すらも構築していたのです。「能力を存分に出して、男性と伍して仕事をするようになっても、可愛くない女だと言われる。それなら男性に従っている方がまだ楽だ」と思うようになるのです。
社会経済の発展の点から考えても、かくまで長い月日を、あえて女性の伸びしろをカットして、能力を十分に発揮させなかったことによる損失の大きさは想像を超えます。人類が愚かだったとすれば、賢明に転じればいい。人類社会にもたらされる福利は絶大なるものがあるでしょう。

私は勇敢さと美しさは共存すると考えます。凛とした強い美しさは女性の領分に近いものです。人権運動家のマララ・ユスフザイさんの美しさ、その美しさを実現したのは彼女の揺るがない正義感の強さなのです。
人格の違いは性差で説明するより個体差で語るべきものです。チャレンジャーで怖いもの知らず、空間認識に強く運転が得意な女性なんて、かっこいいでしょ!あるいは文学青年で、優美なものを好み、家事が得意な男性も、いいなぁ。おしゃべり好きで女性への共感度の高い男性なら、学校でも職場でも人気者に決まっています。――フランス男がそうで、はじめ驚きました。だって、ベースボールに馴染みのないフランス人は男女を問わず“like a girl”みたいな投げ方しかできません。

“らしさ”の周囲に悪意はありません。でも、時代の“らしさ”に埋没するのは自分の責任です。それより、個性を最大限に発揮したほうがいいに決まっています。
これからの時代、子どもたちにジェンダーレスな多様性を認め、個人としての独自性を伸ばす育て方が求められます。能力や考え方は性別以前のもの。そして、自らで長い歴史の呪縛を解き放っていきましょう!そんな思いもあって、結婚、婚活についての問題を深くアナライズした『結婚という呪いから逃げられる生き方―フランス女性に学ぶ』(ワニブックス)を上梓しました。

男vs女(バーサス=敵対)ではなく、豊かで成熟した男&女(そしてLGBTQ)の楽しい世界を構築しようではありませんか。それこそセンシュアルです。