Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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エッセイ バックナンバー

センシュアル・サンセット(2016.01.22)

“見つかったぞ
何が? 永遠が
太陽と
融合した海が”
アルチュール・ランボー











その日、息子と近所のレストランに行った帰り路、いつも見慣れたグレーのアパルトマンの最上階の窓ガラスがまばゆいバラ色に染まっていたので、きっと美しい夕焼けに違いないと思いました。ただ、見上げるだけでは、ビルに切り取られた青空しかありません。
サンルイに亙るセーヌの橋まで行けば視界が広がるから急いでみよう。それまで、太陽が沈みませんように!こんな鮮やかな夕陽を観るのは何時ぶりのことか……

……わたしもいつかこのパリを離れるだろう。子どももやがてパリを去るかもしれない。そんな将来のひととき、この夕暮れの光景を想い出すんだろう。同じように、セーヌに向かう石畳の感覚もセーヌを渉る心地よい風もぜんぶ一緒に。そのときにはなんという事もかった日常のシーンのひとつひとつがきっと記憶の底からあふれ出す。生活の一瞬一瞬の記憶がキラキラと輝き、それらはかけがえのないものになる。
もっと遡って、南仏のどこまでも続くひまわり畑の中で、必死の思いで子どもたちを手をひいていた。一度っきりのあのとき。いま、あのときを想い出すように、この夕暮れのひとときも、何時か記憶の底からあふれ出すに違いない。
そんな過去と現在と未来とが交錯する感情に憑かれたとき、ふとセンシュアルであることの本質に行き当たった気がしたのです。

それはそこに留まらないもの。常に移ろいゆくもの。生と死の間に遍在するもの。だからこそ、かけがえのない一回的な“いま・ここの記憶”を刻んでくれるもの。
美しさの本質もまた存在というものの脆さや儚さと不可分ではないか。やがて滅びるあらゆる生命の一瞬一瞬の姿。恋というものの、ときに命もかけながら、偶発的でいつ終わるともわからない微細な揺らぎ。生きているわたくし、生きている子どもたちも確実に死に向かっている。そんな感覚が堰を切ったようにあふれ出たのです。100年後にはおそらく今生きている誰もが存在しないという現実が。
キルケゴールのようにいえば、わたくしたちの日常には、愉楽や失意などの感情の抑揚の底に「怖れと戦き」が横たわっています。そこで、必ずしも超越的な絶対者(神)に帰依するのではなく、脆く儚いからこそ生命への愛を確信するということ。センシュアリティとは、生きていることの自律性の証しではないか。

ところで、わたくしたち親子は、セーヌの端にたどり着き、すべてを薔薇色で埋め尽くすような夕焼けをみることができました。ボードレールやプルーストが愛した黄昏の最後のひととき、風景は切り立ち、くっきりした稜線は、ほどなく、夜の闇にのまれていきました。