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テロ後、10日が過ぎた街の様子ーパリに住む覚悟(2015.11.26)
襲撃現場に添えられるキャンドル
撮影:松永もえ
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今回のパリ同時多発テロ事件で、思いもしなかった世界の激動の先端に放り出された気がいたします。けれど私たちの生活が、それでどうなるというものではなく、それはしぶとくいつも通りに持続するのだと言わねばなりません。普通の人の普通の生活の幅は、政治や思想なんかより絶対的に大きい――理屈ではなく、いまこそその実感が如実に現れるのです。ジャーナリストの端くれとして、先日はテロの翌日に普通に生活を続けるパリ市民の様子をお伝えしました。現実的には、シャンゼリゼのクリスマス市は人出が半減していますし、デパートやコンサート会場など人が大勢集まるところは何時もと比べてはるかに閑散としています。近郊から普段ならRER(郊外線)やメトロで通勤する人達もマイカー通勤に切り替えている人も多いとか。リスク回避はもっともなことであると思います。ただパリのエスプリ――ワインをひっかけて愛を語り哲学を議論する――が実践されるカフェやビストロのテラス席などの様相は、“テロに屈しないで外で食事しよう”という呼びかけもあって、賑わいを取り戻しつつあります。
メディアは経済社会に帰属している媒体ですから、生業として、多くの人が興味関心をもつ情報を切り売りします。最近、ニュースの公平性の論議が湧き起こっています。パリの悲劇ばかりに焦点があてられ、(犠牲者の数では圧倒的多くの)中東で起こったテロのことが軽視されていいのかという声があります。それでいいわけはない、そう思ったメディアに携わる人は、ニュースをいかにして世界の耳目をバランスさせる風に仕立て上げるかを工夫すべきだと思うのです。ドラマだって同じことでしょう。いかにコンテンツ(脚本)が好くても、演出が貧相だったら、作品として評価を得ることなく消えてしまいます。
ニュースとはニュース・バリューがあるもの。ニュース・バリューがあるものとは、前に述べたように、多くの人の興味関心を惹きつけるものです。ニュースの価値はヒューマニティだけでは不十分であって、以前よりもずっとジャーナリストの知恵と工夫が求められるのです。いま、ここで人権主義を盾に公平性の問題に固執したら、世界の状況の重要なポイントを逸すると思います。メディアの報道は、人権を前提としながらも、この世界の大きなうねりをきちんと伝達するべきだと思われます。
フランス人の中でも今回のテロに関する過剰な反応について、ISの罠にはまっていると主張する人もいます。特に若者の中には事件をフランスの国内問題と捉え、歴史的な植民地や移民あるいは人種間のひずみから生じたとする意見もあります。多数派は、すでにこのテロ事件の本質は“戦争そのもの”であると解釈し断定します。敵はすでに国家として戦争をしかけているのであるからアメリカ、ロシア、中国の大国が協力し、強大な力をもって短期間に攻勢をかけることこそが最善であると。一方、フランスの治安、諜報機関に対する安全策の不備を嘆く声もあります。1月にすでに惨劇が起こったわけですから当然といえば当然でしょう。非常事態宣言も3ヶ月延長され、市民の生活面での不自由はまだまだこれからだです。
ですが、このような時にこそ、エモーショナルに憎悪や敵愾心を露にするのではなく、知性と理性で全体像を把握し、出来事を分析しなければならないのです。頭をつかうこと、エスプリを死守すること、それは、フランス人が伝統的に支持するレジスタンスの本質的な立ち位置なのです。
パリは――ヘミングウェイ、マルクス、ハンナ・アレント、スーザン・ソンタグらがそうであったように――世界で唯一、自らの精神を解放しうるアジール(隠れ家)なのです。一方、その解放性によってスポイルされる人々をもこの街は包み込む。
つまり、人々の希望と欲望が集まり、夢の実現を誘惑する都です。しかし、光が強い分だけ、闇もまた深いと言わねばなりません。田園風景にテロが似合わないのは、そこでは、ただ無垢な自然が優勢だからです。
パリであれ、ニューヨークであれ、東京であれ、都に住むという選択の中枢には、自然を捨てるまでに甘い毒に誘惑されたという原罪への共犯的な感覚が通底します。「歓楽極って哀情多し」であれば、楽しさを享受する代償としての危険だけではなく、自らがピエロである哀しみを踏み堪える責任性を引き受けるという気概が求められるのかもしれません。
けれど、夢をみること、その夢が叶えられるという人間精神のダイナミズムを胎養した他でもなくこの都(世界都市)は、人にどれだけの勇気を与えてきたことでしょう。
穏やかな晩秋の日差しの中、わたくしも、パリに住む市民の一人としての心意気を再確認したいという思いに駆られております。
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