|
|
|
残酷で美しい“後宮”というシステム ―― よしながふみ『大奥』(白泉社 既刊5巻)を読んで
(2009.10.13)
|
|
今年度の手塚治漫画大賞を受けた『大奥』は、その丁寧な描写と精緻な時代考証とともに、壮大な構想力に驚かされます。男女逆転の物語は平安時代の『とりかえばや物語』をはじめとして、古くから洋の東西を問わず枚挙にいとまがありませんが、そのほとんどは退廃的な風俗描写に終始して芸術性は高くありません。けれど『大奥』はまったく異なります。壮大な虚構であることがわかっていても身につまされる現実感があるのです。
(大奥もその一種である)後宮が一人の男にかしずく数千人の女の世界であるという固定観念を逆転してみたら、人間が考えた極致の壮絶なシステムであったことが炙り出されてきたのです。
大奥物語といえば、将軍様の寵愛を争奪する女たちの嫉妬と羨望の泥仕合であったり、俗世間に遺してきた彼との悲しい恋の物語でした。しかし、それらは信憑性がありません。現実の大奥では女たちの真実の愛と誠実が将軍様だけに捧げられたに違いありません。なぜなら、そういうシステムだったからです。
人間は強制的なシステムに放り込まれたら自発的に順応しようとします。いやいやするのは不快ですが、そうしたいと思ってすれば快感が得られます。『大奥』では、若くて健康的な三千人の男が一人の女にかしずきます。襲うことはできません、武士としての仕事に就くことも許されません。しとねに呼ばれるのを待ち望むしかないのです。必然的に三千人の恋慕はただ一人に集中するにちがいありません。
男女逆転という状況設定によって赤裸々になったことは、そうでない〈ふつうの後宮〉がいかに計算しぬいたシステムだったかということを示しています。女たちは一切の雑務から解放されて王様を恋い慕い訪れを待つことのみに集中します。いいえ、労働も家事も育児も許されず、性愛の対象のみの存在に落とし込まれた存在にさせられるのです。なんと残酷であり、はかなく美しいシステムなのでしょう。
人間的な生活、あるいは動物的な生活とは、どういうことなのでしょう? 更年期があるのは人間だけです。すべての動物は従属栄養(=他の生物を食料とする)生物なので食物連鎖のなかに位置づけられます。動物は誕生から死に至るまで、ほとんどの生活を捕食と生殖に費やします。一般に動物の本能といわれるものです。そして子育てが終われば生涯を閉じます。人間はそれからが残っています。
|
|
|
けれど、人間がそれほど「人間的な」生活を営んでいるのでしょうか。捕食行動を仕事からの報酬を得て生活することと考えれば、長い間の教育や経験によって獲得する躾や知識もその一部ということになります。恋愛だけでなく結婚だって何度も試行錯誤する例は多くみられます。人間は本能の生活に不器用で多くのロスを重ねているようです。私たちふつうの人間にとっては、誕生から死にまでの生活時間の全部が捕食と生殖に消費されているといっても過言ではありません。
一般的な社会人の恋愛をしている生活時間を考えてみましょう。働いているならば、起床から就寝までの時間は通勤と食事と会社の仕事に費やされます。1日にそれこそ何分か相手を思い電話やメールをするでしょう。1週間に1回ほどデートして生殖行為の訓練をする、そんなものです。どこに「愛に満ちあふれた生活」がありますか?
結婚をしたあとは生活はもっと現実的です。妊娠出産のあとは殺人的な雑務スケジュールがたてこみ、子どもが学校に入ったらそれで意味もなく忙しくなります。夫が浮気したり、子どもがグレたり。やってられないことがしょっちゅう襲ってきて、絵に描いたような家族の幸福なんて永久に訪れることはありません。
けれど後宮は違います。労働とかの下層階級の義務からは解放されて、ただ愛だけを思い沈潜する生活に浸りきるのです。本能だけの生活ではありません、これこそ人間だけしかできない「人間的生活そのもの」ではないでしょうか。
人間が人間であるのを特化したシステム。後宮・ハーレム・大奥等々、世界各地で連携もなく同じものが“発明”されたことが、人間しか思いつかない“知恵”を思わせます。君主――絶対権力と経済力と身分をもつ者――のみが行使できる特権の“愛”です。一方、愛の対象の女たちは代償として過剰な浪費と贅沢を行使して王朝を傾けました。
私たちはわずか人生の1%程の幸福な一時を,脳の妄想作用で何十倍にも膨らまして平凡な時間を過ごしています。割れ鍋に綴じ蓋というか、本能によってつがって日々虚しい喧嘩をし、子育てをしつつ残された時間を浪費していきます。ありていにいえば人生の意味も哲学もありません。
人間としての幸福とはなんでしょうか。私ははるかに思いを馳せます。
――アルハンブル宮殿で盲目の奏者たちの奏でるメロディに涙する女がいます。オスマンの嘆きの家で昔の思い出に浸るだけの女がいます。帝に相手にされず宦官に色目をつかう女がいます。大奥の昼下がり、合わせ鏡にかすかな老いを見つけて溜め息する女がいます。――
なんと切ないことでしょう。
そして美しい。
やはり美しさは生活感の外にあるのかもしれません。 |
|
|
|