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過ぎし時に(1)(2009.3.30)
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オルゴールの小箱の中にしまわれた、懐かしい香りのするセピア色した夢や憧れのかけらたち。
春の香り パリ――幾度か目の生まれ変わりの季節
「春の香りだね。。。」
後朝(きぬぎぬ)(*1)の朝、ワイシャツを裸の躯に羽織りながら言った人を思い出します。
ベットの下に沈んでいたムンと湿気を含んだシベット(*2)やアンバー(*3)な香りが窓の外へ解き放たれて、いれかわりにはいってくる鼻孔の奥をくすぐる甘いシトラス(*4)の新鮮な生命(いのち)の香り。
私は言葉にできない恍惚感を味わうのです。
ああ、こんな朝があるならどんな瞬間(とき)がきても私はきっと幸せに生きていけるに違いない、と。
別れ際、彼の耳の辺りに口づけをします。
その匂いだけをいつまでも躯に刻み付けるために。
シテ島(*5)のカテドラルの鐘の輪唱を遠くにききながら、朝靄に煙る、今までもそしてこれから何百年も変わらないであろう、リュー・ド・ビエーブル(*6)やリュー・ドフィン(*7)あたりの路地を歩いていると、ドアや窓から漏れてくる家庭の幸せな匂いと一緒に、パリの朝、春の香りが漂ってきます。
それは焼きたての香ばしいパンの香りであり、甘くてもさらりとした春咲きの花の香りであり、蜜のように蕩けた動物的な汗と淡いスカトール(*8)なスパイシーな都会の香りなのです。
花の都、パリ──。
華やぐ春4月から5月ともなれば、チューリップやデイジーが咲き乱れ、長ければ白や紫のリラの花が開き、リュクサンブール(*9)の藤も馥郁と香ります。
そしてミュゲ(*10)。
5月1日メーデーの日に、パリの人々は互いの幸せを願ってミュゲの花の一輪を親しい人どうし贈りあいます。
可憐でありつつも薫り高いミュゲ、春から夏へのバトンタッチです。
短い短いパリの春は、こんな風に駆け足に過ぎていくのです。
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*注*
(1)後朝:夜をともにした恋人たちの朝の別れ。身にまとうそれぞれの着るものが擦れ合って出る音はせつない。
(2)シベット:Civet。ジャコウネコの生殖腺近くからの分泌物からつくられた香水。霊猫香、シャネルNo.5にもブレンドされているとか。古来より媚薬として用いられた例が多い。エタノールに溶かしたチンキは強い糞臭がするが、ひたすら薄めると心地よい香りに転化するという。ジャコウネコの排泄物に含まれる未消化のコーヒー豆で淹れられるコーヒーは格別の香りがして、珍重高価らしい。
(3)アンバー:香料、アンバーグリスのこと。マッコウクジラがイカやタコの嘴など消化不可能なものを酵素で固めて蝋状にして排泄したもの。海を漂って浜辺に漂着し芳香によって龍の涎の固まったもの(龍涎香:りゅうぜんこう)と誤認された。いまは捕鯨の際に取得する。名は灰色の(グロス)琥珀(アンバー)から。
(4)シトラス:Citrus。柑橘類のことと思われているが本当はミカン属のみをいう。ミカン属にはオレンジ類・グレープフルーツ類・香酸柑橘類・雑柑類・タンゴール類・タンゼロ類・ブンタン類及びミカン類がある。カラタチ類及びキンカン類は含まれない。
(5)シテ島:パリを流れるセーヌ川にサンルイ島とともにある中州。パリ発祥の地といわれ、BC.1世紀にはすでに住民がいた記録がある。「シテ島に住む者」の古語からcitoyan(F)となりcitizen(市民)という語ができたという。ノートルダム大聖堂・パリ警視庁・オテル・デュー・ド・パリ(パリ市民病院)があり、橋は右岸と4本・左岸と5本・サンルイ島と1本がある。このうち西端の最も古い橋をポンヌフ(新しい橋)という。
(6)リュー・ド・ビエーブル:サンジェルマン大通りからセーヌに続く、13世紀からある非常に古い路地。第5共和政の第4代大統領、故フランソワ・ミッテラン氏の自宅がある。
(7)リュー・ドフィン:ポンヌフに直結している17世紀からある通り。実存主義全盛の50年代、33番地の穴蔵酒場『タブー』にはサルトル、カミュ、コクトーなど時の人が集まり、多いに賑わった。
(8)スカトール:skatole。有機化合物C9H9N。哺乳類の大便などに含まれ不快な臭気を持つ物質。微量を希釈溶液にすると快香を放ち、香しい花の香りに変化する。多くの香水の原料や煙草の香料として用いられている。
(9)リュクサンブール:シテ島の南岸にあるサンジェルマンとカルチエ・ラタンの間に広がるリュクサンブール公園。ルクセンブルグ公爵邸が宮殿となって現在は元老院の議事堂となり、庭園は公園として開放されている。四季折々の自然の美しさを満喫できる。
(10)ミュゲ:Muguet、すずらん。もらった人に幸運がもたらされるという。16世紀中葉、シャルル9世の宮廷から始まった風習で、19世紀末期から一般にも広がった。フランスではこの日に限り、許可なくともミュゲは売っていいとか。
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