Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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エッセイ バックナンバー

☆恋と愛★(2008.09.10)


恋衣てふことばはご存知かしら?
恋衣とは恋するたびに身にまとう衣ではありません。
恋ごとに繕うむなしい誇りでも、
恋した人の色に染められた心のことでもないのです。
恋する人の前で脱ぐコスチューム? 
まぁとんでもない! 恋は衣を脱ぐため方便なんかじゃありません。
平安時代のふしどの中で十二単は寝具でもあったのですよ。
恋衣は身から離れぬことのない衣服、
恋をすれば起きてみつ寝てみつ思い焦がれてやむことのない
かの人への気持ちのことなのです。
終わりのない恋の思い、
終われない恋の思い、
終わらせたいのにどうしようもない思い、
あなただけへの思い......

いま、あなたの深い境地を感じつつ......


☆御利益ありますように☆
美と官能というより豊饒の女神といった感じのトルコにあるアフロディーテ像とのツーショット。

恋愛、恋と愛からなる言葉。これは「恋and愛」の直列なのかしら? それとも「恋or愛」の並列? 恋も愛も英語では同じlove、フランス語ではamourですが、日本語では恋と愛とでは雰囲気が違います。フランス流と日本流の恋愛感の違いは案外こんなところにタネがあるのかもしれませんね。
短絡的に考えると、複数を対象にできるのが愛、対象が一人が恋、救いがあり時に慈悲的宗教的であるのが愛、エゴイスティックで狂おしく時に快楽的でもあるのが恋、救われるのが愛、落ちるのが恋。ん? 本当かしら
恋と愛の燃えあがる夏が過ぎ、しっとりと思慮深くなる秋に、どちらがどうなのか私なりに考えてみました。

字義、文字の意味から考えてみます。
恋、いや正確には戀。高校のころのジュモン「いとしいとしと言う心」の記憶ありませんか? この字を分解すれば絲+言+心です。絲はもつれた糸、言はけじめをつけること。もつれた糸をスッキリさせようとしてもできない様子が戀の冠の部分です。これが心の上にのっかると「心がさまざまに乱れて思い切りがつかず思いわびる状態」となります。
一方、愛という文字は心+夂(足をひきずって歩く)+旡(人間が胸をつまらせて後ろにのけぞってしまう)からなっています。「心がせつなく胸つまって足がもつれて前に進まない様子」を表します。そこから、「惜しむ」「いとおしむ」「めでる」の意味となり、その後明治になってから、キリスト教の「神が人々を救う恵みの心」をも愛という訳語をあてることとなったそうです。
文字の意味としては愛こそ「いとしいとしと言う心」なのです。恋は、「断ち切ろうとしても断ち切れない、もつれにもつれた心の状態」のことでしたから、そんなになったら「心がせつなくなって胸つまり、足がもつれて前に進めない状態」(それを人は愛という)に陥るようになるのは必然かもしれません。 
ところで恋(こい)は訓よみ、愛(あい)は音よみですね。ここまでは漢字の意味から考えてきましたが、やまとことばではどうなるでしょう?
「こひ」の基本形は「こふ」です。つまり「乞う」や「請う」ですから(欲しいものをくださいと)「お願いする」とか「頼む」ことです。恋うるとは相手を欲しいと思う心、また自分のものになってほしいと懇願することなのだと思います。
愛の訓は「いとおしむ・おしむ」もありますが「めでる」がもともとのようです。めでるの古語は「めずる」、堤中納言物語にありました『虫愛ずる姫君』とかなつかしい思い出です。(私は虫愛ずる姫だったのですが右馬佐の君が現れなかったのが残念だわ!)。めずるは「好きでたまらなく思う」こと、そんなに好きでたまらないものは滅多にあるものじゃないでしょうから「珍しい」が派生しました。かわいがる、好きでなぶるといった意味も「愛する」には含まれています。
ここまで考えると恋と愛の違いはずいぶんはっきりしてきました。位置関係からいえば、恋の対象は自分と対等または上位に対しての思慕といった感情ですが、愛の場合は自分と対等もしくは下位にあるものへの保護し包み込む気持ちのようです。仰ぎ見て憧れるのが恋、やさしく大事にして守ってあげるのが愛といってもいいでしょう。
恋と愛のどっちが好ましいと思いますか? 恋する人からずっと愛されていたいと思うのは誰しもですが、二匹のウサギを追うことかもしれません。恋人と愛人のどちらになりたいと訊かれたら、恋人がいいと思う人が多いでしょう。ことばの意味を正確に知らなくとも世の中は直感でニュアンスがわかっているのですね。
ことばとして新しいのは愛です。恋は『万葉集』の以前からあったのですが、愛を今のような使い方にしたのは明治になってからです。さらに男女の間で「愛してる」ということばが使われだしたのは、戦後になってからとだというのです。「じゃあそれまでなんて言っていたの?」と尋ねたら、「惚れたとか好きやとかゆうてたんとちゃう」とそこらのオッサンが言うてました。私の語感としては恋がオシャレそうに思います。なにも新しいものがすべていいのじゃなさそうですわ。


もっとも恋と愛の違いは日本語ならではのことです。妻のことを中国語では愛人といい、愛人のことは情人といいます。「生涯に愛する人はただひとり、だから奥さんは愛人というの。浮気は本当の愛じゃなくって情が移るだけの情人」と中国の女性から説明されましたが、これも相当に眉唾です。
日中辞典をひくと「愛人」はたしかに「情人」なのですが、もうひとつ「相好」というのも見つけました。情事、情炎といったどろどろしたイメージは漢字からきたものなのでしょう。そうそう、日本語では情人ではなく「情婦」といいましたね。恋の歌愛の歌 ことばの意味から考えて、恋の歌と愛の歌の典型となるものを探してみました。それこそ神も人間の創造以来あきることなく恋と愛をつづけてきました。恋あるところ歌が生まれ、歌は愛を育んできたといえます。いろんなご意見があることは承知でごく私的な趣味で選んでみました。
恋といえば式子内親王の

しるべせよ跡なき波にこぐ舟の行くへもしらぬやへのしほ風

という新古今集の歌ほど「恋の気分」を表すものはないように思います。どこにも「恋」「思ふ」「君」といったことばはないのです。それでも恋のせつなくあてどのない揺れる心がひしひしと伝わってきます。一首はどうかさししめしてください、この舟はどこに行き着こうとしているのでしょうか? 私の恋は遙か彼方から吹き来る潮風のなかに漂って、星も航跡もない波間に漕ぎだしたのです。(どうか恋するあなた、私を愛しんでください、私の心はあなたからいただく愛を求めてわなないているのです、どうなってもいいのです、ただあなたからのお情けがいただければ…)。
まさにものぐるおしい(もの狂ひ+欲し)思いがいたします。 恋の色はどんな色なのでしょう? 和泉式部は

世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける

と歌いました。一首は恋の色というのはどんな色なのでしょう、そんなものはないあなたは笑うけど、恋をすればしんしんとからだに染みいってくるあなたは真実ですわ。(あなたの色に染まっていく私、つくづく恋の力と幸せを感じます)。愛を愛でるという意味でとらえると、なかなか美しい歌が浮かんできません。たとえば白居易の『長恨歌』では、楊貴妃の美しさに溺れていく玄宗は表現されていても、寵愛を受けた女性の感情は見えないままです。
そのためばかりではありませんが、愛の歌は近代以降から選んでみました。

立原道造の詩から
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夢見たものは‥夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる
夢見たものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
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ここにある愛は私たちが理解できる愛です。近代人の恋愛と結婚、そこからはじまる家庭生活という愛と幸福です。このあたりから日本における愛の歌が始まったように思うのです。

茨木のり子の詩からでは、
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小さな娘が思ったこと 小さな娘が思ったこと
ひとの奥さんの肩はなぜあんなに匂うのだろう
木犀みたいに
くちなしみたいに
ひとの奥さんの肩にかかる
あの淡い靄のようなものは
なんだろう?
小さな娘は自分もそれを欲しいと思った
どんなきれいな娘にもない
とても素敵な或るなにか……
小さな娘がおとなになって
妻になって母になって
ある日不意に気づいてしまう
ひとの奥さんの肩にふりつもる
あのやさしいものは
日々
ひとを愛していくための
ただの疲労であったと
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愛には生活があり恋には情熱があるように思います。恋がもの狂いだとすれば、近代的な愛は意外と堅実なものかもしれませんね。