この映画はいろんなことを考えさせてくれました。幼なじみのセシーリアとロビー。お嬢様と使用人の息子、彼らはともにケンブリッジを卒(お)えて田舎の館に戻ってきて、今はモラトリアム。男と女を意識してから、苛立ち、衝突するような関係でもあります。ロビーはメディカルスクールに戻って医者になることを決意し、あるきっかけで二人は愛を確認して抱擁するのですが……。
愛はひきさかれ、そのためにまた美しく昇華してしまった心の欠片となりました。ロミオとジュリエットがそうであったかのように……。ドラマチックにならなくてはいけないがゆえの悲哀。彼らが何事もなく一緒になっていたとしたら、生活感漂う、ささいな原因の罵り合いで別れることになったかもしれません。それでもなお「ささやかな日常」は、なんとかけがえのないものなのでしょうか。
現代ではDNA鑑定などが可能なので、こんなストーリーはありえないだろうと思ったり、いや痴漢冤罪事件なんかを見たら“無垢の仮面”の恐怖は変わっていないのではないかと思ったりもします。
翻って自分はどうだったか。もう記憶も定かではない残酷かつイノセントな少女であった遠い昔の嘘や企みが、もしかしたら人生の重大な分岐点に何かしら作用したかもしれない──。薄ら寒い思いもあります。さて、この映画のキーワードは『cunt』、無垢が知っている単語ではないのです。これ、PG-12である唯一の理由(?)かも……。
この作品は映画だけで観たら重厚な質感は伝わっても、ストーリーはそれほどダイナミックではなく、撮影的にはダンケルク敗走場面の長回しに感嘆する程度かもしれません。私はまだなのですが、もしかしたら、どうも大作といわれる原作『贖罪』のほうが、作品世界としては数倍まさっているのかも知れない、と感じました。また、本を読んでからの感想を書いてみますね。 |