Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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医の倫理と美しさーーー官能ブログ『寝ても醒めても』の存在意義(2007.12.25)


職業としての医師に求められる倫理は、それが直接に他人の生命に関与するものである以上、いくら厳しく考えても厳しすぎるということがありません。
『WMA(世界医師会)ジュネーヴ宣言』では次のように記しています。
(1948採択 68/83/94修正 日本医師会訳)


医師の一人として参加するに際し、
◆私は、
人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に誓う。

◆私は、私の教師に、当然受けるべきである
尊敬と感謝の念を捧げる。

◆私は、
良心と尊厳をもって私の専門職を実践する。

◆私の
患者の健康を、私の第一の関心事とする。

◆私は、私への信頼ゆえに知りえた
患者の秘密を、たとえ患者の死後においても尊重する。

◆私は、全力を尽くして医師専門職の
名誉と高貴なる伝統を保持する。

◆私の同僚は、私の兄弟姉妹である。

◆私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病や障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的オリエンテーション、あるいは社会的地位といった
事柄の配慮が介在することを容認しない。

◆私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから
人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることをしない。

◆私は、自由と名誉にかけてこれらのことを厳粛に誓う。



長い間、医の倫理はヒポクラテスの教えとか「医は仁術」とかで表現されてきました。それらは、医療を専門職の医師に委ね、同時に医師は親が子を思う気持ちで誠意をもって患者に尽くすことが要求されるというものでした。これをpaternalism(父権主義)といい、すくなくとも20世紀の半ばまで踏襲されてきたのです。
けれど医学や医療のレベルが急速に高度化し、臓器移植など複雑な問題が提起されてきますと、医療の専門職が単純にモノゴトを判断していいということでもなくなります。医の倫理の主体は逆転し、「患者の権利」が第一義となったのです。
患者の権利を表したものとして著名なものとしては、アメリカ病院協会の『患者の権利章典』や『患者の権利に関するWMAリスボン宣言』などがありますが、つきつめれば「患者の自己決定権とインフォームド・コンセントの尊重」ということになると思います。
すると次には、いかに患者の自己決定とインフォームド・コンセントを尊重するとはいえ、非配偶者間の人工授精やクローン人間づくりなど、そもそも人間の倫理として許されるかどうかの結論づけが極めて困難といえる「医療行為」のような、判断の主体さえ明確でない、さらに難解な問題が現れてきました。
そこまでいかなくとも、将来の肉体的な健康を必ずしも保証することのできない美容整形や性転換など、医の倫理と必ずしも合致しない問題は現に存在します。「健康こそすべての前提であって、美しさも健康あってのものだ」ということは簡単でも、美意識は必ずしも健康と同伴しているわけではないのです。


私の専門はもともとクラシカルな皮膚科ではありますが、現在は皮膚領域を越えた美容的アプローチに多くを割いています。職業として「美しさ」とりわけ女性の美しさを追求していく使命がある、といってもおかしくありません。しかし女性の美しさと健康がいつも両立しているとは限りません。「佳人薄命」の言葉もあります。もしかすると、美しさはいのちを縮める魔性を秘めているものかもしれないのです。
私はこの「不健康の美」についても考えてみたいと思っています。健康でない美を存在しないものとみなす姿勢には、世の中の弱者を差別する思想すら匂っているように感じられます。とはいっても「不健康の美」って、どういうものでしょうか? もともと科学的には「永遠の美」なんて存在しません。けれど「滅びの美」はたしかにあると思うのです。
江戸期から明治時代、女形の色っぽい役者や売れっ妓の芸者たち、あるいはやんごとなき大奥や御所の局で妍(けん)を競った美人たちが、落花の舞のように若くして亡くなっています。多くは白粉に含まれた鉛の中毒なのですが、その白い乳首を咥えた将軍や天皇の子女たちもまたほとんどが幼くして死に、世の行く末に大きな影を投げかけたという歴史の裏舞台があります。幸いというか、あまりの高級品であったために庶民にはまったく影響していないというのも、皮肉な話ではあります。庶民の美とハイソの美は隔絶していたのでしょうね。
近代以前の中国の纏足、また下着の誕生ともいわれる西洋のコルセットなど、ついこの間まで女性の美は、デフォルメされた外形にとらわれていたのではないでしょうか? 貧血と極端な屋内だけの生活のため青白いくらいの透き通る肌の美しさ──美しき病であった結核の療養所に漂う死の影をうつしこんだかのような退廃的な美。そうした美しさは事実ではあっても、とても健康とはいえません。一方庶民は真っ黒になって働き本能だけで番(つが)っていたとすれば、それを健康的と喜ぶべきなのでしょうか? あら、私としたことが......結論が出るわけもありませんね。
世の中は権力を持った政治家が動かしているようですが、私たちの生活の本質は変わることはありません。生活の幅は政治のそれよりも広いのです。同じように科学で把握できる美しさも、なんと僅かなことでしょうか。しかし、だからこそ医学の分野に身を置く私はまず科学に依拠したい、そのうえで科学では把握できないものも探っていきたいと思うのです。

女性の美しさと女性の生き方や様態には密接な関連があります。ドキュメントや創作のベースとするためのノートとしてブログを立ち上げて数年になりますが、その分野からもアプローチを試みたいと考えたからなのです。

ご興味があったらご覧になってくださいね。
寝ても醒めても