職業としての医師に求められる倫理は、それが直接に他人の生命に関与するものである以上、いくら厳しく考えても厳しすぎるということがありません。
『WMA(世界医師会)ジュネーヴ宣言』では次のように記しています。
(1948採択 68/83/94修正 日本医師会訳)
医師の一人として参加するに際し、
◆私は、人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に誓う。
◆私は、私の教師に、当然受けるべきである尊敬と感謝の念を捧げる。
◆私は、良心と尊厳をもって私の専門職を実践する。
◆私の患者の健康を、私の第一の関心事とする。
◆私は、私への信頼ゆえに知りえた患者の秘密を、たとえ患者の死後においても尊重する。
◆私は、全力を尽くして医師専門職の名誉と高貴なる伝統を保持する。
◆私の同僚は、私の兄弟姉妹である。
◆私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病や障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的オリエンテーション、あるいは社会的地位といった事柄の配慮が介在することを容認しない。
◆私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることをしない。
◆私は、自由と名誉にかけてこれらのことを厳粛に誓う。
長い間、医の倫理はヒポクラテスの教えとか「医は仁術」とかで表現されてきました。それらは、医療を専門職の医師に委ね、同時に医師は親が子を思う気持ちで誠意をもって患者に尽くすことが要求されるというものでした。これをpaternalism(父権主義)といい、すくなくとも20世紀の半ばまで踏襲されてきたのです。
けれど医学や医療のレベルが急速に高度化し、臓器移植など複雑な問題が提起されてきますと、医療の専門職が単純にモノゴトを判断していいということでもなくなります。医の倫理の主体は逆転し、「患者の権利」が第一義となったのです。
患者の権利を表したものとして著名なものとしては、アメリカ病院協会の『患者の権利章典』や『患者の権利に関するWMAリスボン宣言』などがありますが、つきつめれば「患者の自己決定権とインフォームド・コンセントの尊重」ということになると思います。
すると次には、いかに患者の自己決定とインフォームド・コンセントを尊重するとはいえ、非配偶者間の人工授精やクローン人間づくりなど、そもそも人間の倫理として許されるかどうかの結論づけが極めて困難といえる「医療行為」のような、判断の主体さえ明確でない、さらに難解な問題が現れてきました。
そこまでいかなくとも、将来の肉体的な健康を必ずしも保証することのできない美容整形や性転換など、医の倫理と必ずしも合致しない問題は現に存在します。「健康こそすべての前提であって、美しさも健康あってのものだ」ということは簡単でも、美意識は必ずしも健康と同伴しているわけではないのです。
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