Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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渡邊泰子さんへのレクイエム ── 「東電OL殺人事件」ノート ── 第2回
旧『南仏通信』より加筆修正/2004年記(2007.09.10)



◎原因を考える意味
世間は「病気なのだ」と判断します。なにがなにやら分からなくなって困惑すれば、病気とするしかないのです。──病気? たとえば摂食障害がレポートされています。ガリガリだったのは栄養障害の結果である、と。

思春期から食は細いほうだったそうですが、最初の“病気”は父の死によってひきおこされたといわれています。父の死が大変なショックであったことは間違いありません。父と娘のひそやかな交流が突然断ち切られられたのですから。

父は山梨県の没落した機業家の家に生まれ、旧制東京高校から東京帝大第二工学部を卒業して東電に入社しました。日本の高度成長に伴って電力需要が急伸するなかで、超大容量の送電線を東京の地下に埋設するビッグプロジェクトを成功させ、会社の期待の星であったのです。

これに対して、母は名門のお嬢さんで職に就いたこともなく、きっと世間知らずだったのでしょう。それでも血筋はいい。となると、むしろ母の系統が父とその系統を、言葉には出さないけれど、軽んじるような雰囲気があったのではないかと思われるのです。

父はできのいい長女を溺愛し、次女は母の側につくといった家族関係は、さほど奇異なことではありません。父は「お母さんはなにも分かってくれない」と娘にこぼしたのかも知れません。父にとって、妻には理解できなくても賢い長女はきっと分かってくれる、ということの意味には重いものがあったのでしょう。娘は本当にかけがえのない存在だったと思われます。娘も父を誇りにしていました。高校時代に、「勉強で分からないところを訊くとちゃんと教えてくれる」と友人に自慢していたといいます。ここには濃密な父娘の愛情関係がありました。

普通とか一般とかいわれる、私たちのいい加減な家族関係の場合、いくら娘が「パパ大好きだよ」となついていても、本能がこの関係を切り裂いてしまいます。ある日娘は「パパは不潔よ」といいます。「パパのパンツと私のパンティを一緒に洗わないで!」。これが決別の日です。娘の“女”は姦淫できない“男”である父を用済みと判断して、生殖行為のできる男のもとに飛んでいくのです。冷静にいえば、中年の父より新陳代謝ムンムンの若い男のほうがくさいと決まっているのに、本能は五感もなにもおかしくさせてしまうのでしょう。

色に狂った娘が育ての恩もほっぽらかして出奔する。それで世の中はいいのです。巣立っていって、どっかの男とつがいになって、また自分たちも同じ目に遭うための営為を始めます。これでこそ種は保存されていくのです。

本能への目覚めが遅い娘にとって、父との愛情関係はファザコンと呼ばれます。若い頃にファザコンを抱えている女性は少なくありません。でもほとんどの人は、いつのまのにか脱却できています。あんまり好きでもない男であっても、結婚してセックスしていれば、恋愛ではなくとも性愛感情は湧いてくるものです。また、子どもができて育児に追われたりしている最中に、ふと見れば、父はもう颯爽とした紳士ではなく、そこらのジイさんになっていたということもあります。こうして、いつのまにか娘の気持ちは変質してしまうのです。

その前の段階で父に急死なんかされたら大変です。父という偶像を破壊できないままになります。渡邊さんがそうでした。彼女は東電入社の際に、「亡き父に恥ずかしくないようにがんばります」と言ったそうです。けれど“挫折”が彼女を襲います。それは私たちから見れば、とても挫折とは思えないことなのですが……。

それでもまだ、「だから彼女がそうなった」というのは早すぎます。

◎いくたびかの挫折によって
本当にそうであったかは分かりません。でも、人々は自らを納得させるために、渡邊さんの“挫折物語”をつくり、「そのたびに彼女は堕ちていったのだ」と思いこむ(あるいは、思いこみたい)のです。

最初が父の死であったとする。次は国家公務員上級職試験らしいという。これは確証のない話です。「どうやら」という形容詞がつきます。

父の死からもたらされた摂食障害を完治できたわけではなかったのですが、渡邊さんは理論経済学の勉強に沈潜していきました。ゼミでも優等生でありました。そうなると、なぜ大学院から研究者といったコースを選ばなかったのでしょうか?

 

ここにも父の死の影があります。家庭が経済的に窮迫していたはずはないのですが、それでも家族で誰ひとり働いている者がいないというのは、真面目な性格にとってはプレッシャーになります。母はまったく頼りにならない、自分は長女である──そう思えばなおさらです。時間の限定は別として、彼女は家族の生活をひとりで担う覚悟をしたのです。

そこで、研究職としてかどうかは不明ですが、上級職を受けたが不合格となったらしいというのです。まぁ通産の経済研究所とか経済企画庁あたりなのでしょう。もしそうだったとしても、なんら恥じることはありません。研究職希望なら、「学位を持ってきてくれ」といわれるのが当たり前なんです。

東電へは、亡父の知り合いもいたので問題なく就職できたのでしょう。けれど先に述べたように、彼女は「父に恥じぬ」ようにと思い、むしろ「父を超える」ことを心に誓ったのです。そのため、企業エコノミストとしてトップを走り続けることを、自らに強要したのではないでしょうか?

第3の挫折は、東電社内の海外派遣留学に選抜されなかったことだ、といわれています。これにも「どうやら」という冠詞がつきます。彼女が応募した証拠はありません。けれど同期のライバルと思われていた東京大学教養学部卒の女性が選ばれて、ハーバード大学(?)に派遣され留学した事実はあります。

第4は外部シンクタンクへの出向です。1989年から3年間、彼女は出向しました。東電の調査部門からの出向は、通産省とか経企庁に2年間というのがエリートコースです。それが外部の民間研究所で、かつプラス1年間となると、コースから脱落したと思いこむのも当然だというのです。この出向の期間に彼女は水商売に入り、また売春も始めました。

だけど、もっとも大きな挫折は“女性”であったことだったかも知れません。200人ほどの同期の総合職の中で、女性は8名しかいません(当時はまだ男女雇用均等法以前でした)。そして彼女が死に至った日の時点での在籍者は1名、管理職まで昇進した者も1名、つまり彼女ひとりしかいなかったのです。先の東大卒の女性も、退職して専業主婦になっています。

大企業とはいえ、いやむしろ大企業ならばこそ、表面に出ない隠微な差別があったのでしょう。東大卒で退職した女性は、「私はジェネラリストになりたかったが、会社は女性にスペシャリストとしての存在しか許さなかった」と証言しています。あるいは渡邊さんは、女性であるが故に差別されるという体験を、肉体化したことがなかったのかも知れません。

挫折があったかどうかは置いておくとしても、決意を持って就職して以来、父との距離は広がるばっかりだと認識したときの気持ちは、想像するだに暗澹たるものです。

◎懲罰と復讐
渡邊さんは父への過剰な尊敬と愛情を、立身出世という表現で報いたいと決意していたようです。でも、自己認識として父と自分の間、あるいはあるべき自分と現実の自分の間の格差は、開いていくばかりです。私たちのようなちゃらんぽらんな人間は、その原因を会社や社会のせいにして自分の免罪を図ります。しかし自己にきびしくまっすぐ生きてきた人は、責任を内に抱え込みます。自己への懲罰という衝動です。

自死する人もいます。会社を辞めるのはもっと“健康的”な対応です。でも、彼女はそうしなかったのです(何度もいいますが、この自己懲罰も憶説にすぎません)。

売春の選択は、父に代わっての母への復讐ではないか、との説もあります。父への贖罪、自己への懲罰、母と母の実家、また東電への復讐……。でも、それにしても精力的に“堕落”しすぎです。ますます霧の中に入っていく感じです。

さてそろそろ、筆を止めなくてはいけない頃合いです。この“事件”についての記事やドキュメントにとって致命的であるのは、遺族や東電社員といった彼女の身近にいた人の証言が一切なされていないことです。遺族が語りたくないのはまだしも、どうやら現役の社員には会社から箝口令が出された気配が濃厚です。だから、結果として焦点のあった映像が浮かんでこない、ぼんやりしたイメージだけが残ってしまったのです(今後も新事実は出てくるでしょうが、もはや歴史的過去となったのではないでしょうか?)。

彼女は、こそこそ隠したりしていません。なじみのお客には東電の名刺を渡し、自宅の電話も教えています。自宅からなじみ客に電話してアポをとったり、社内のワープロで売春の宣伝チラシをつくったりしています。多少とも知的なお客とは、ホテルで経済理論の話をするのを好んだとも聞きます。そんなのを自然体(?)というのでしょうか!?

家庭や社内ではどんな言動をしていたのか、まさに興味津々ですが、だからこそ一切漏れてこないのかもしれません。闇は深く、なにも見えないままです。

第3回に続く...