Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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渡邊泰子さんへのレクイエム ── 「東電OL殺人事件」ノート ── 第1回
旧『南仏通信』より加筆修正/2004年記(2007.09.07)



◎このノートについて(私的私語)
このノートは、佐野眞一さんの2冊の書、『東電OL殺人事件』と『東電OL症候群』(いずれも新潮文庫)の読書ノートです。昨年、事件被害者の渡邊泰子さんと同じような年まわりになったこともあり、記憶の隅にひっかかっていたものを確認したくて『事件』の文庫本を手にとって読んでみたら、そのあまりの衝撃に打ちのめされてしまったのです。場面的には、「なんかねぇ……」とつぶやいて呆然となってあとが続かないというか、そんな感じでした。

次の『症候群』には、多くの同世代の女性たちが“自らの内なる渡邊泰子”に直面し、精神の平衡を失して悩んでいるといった状況が報告されていました。これらは、
・ それなりの学歴を獲得するために払った努力と、それに反して報われない社会的なポジションの問題
・ 優しく暖かかった父と娘との、他にはうかがいしれない濃密な感情の記憶と動物的成長過程によって、ついには破綻していく悲劇
・ 性的不感症あるいはニンフォマニアとして自覚される、自らの内部の違和感
などを指しているようです。

私としても、私なりにそういった環境と経験を共通していることを否定はしません。しかし、いまの私は「自らの内なる……」と語る人とは距離を置きたいと思います。誰もが内面に持っている自らを制御できない部分を、死者に仮託して合理化しているように感じるからです。

事件のあった1997年は、私にとってもターニングポイントの時でした。まず、私がいま住んでいるフランスに居を移した年でした。また、早春の朝、出勤途上の首都高でアイスバーンにのってスピンし、車を大破させた事故も経験しました。そのとき私は無傷だったのですが、それは幸運以外のなにものでもなく、まさにいのちを拾った経験でした。

「からだはナマなのだ」と皮膚感覚で理解し、保証のない未来に託するよりも、むしろ後悔なく今を生きることのほうが大事なのだと思ったのです。いつなにがあってもいい、なにがあろうと大いなるモノの決めること、怖がる必要はないのです。その思いが渡仏の決意を後押ししたのかもしれません。“フランスに行く”のに、“知らないところに行く”不安感よりも未知への興味でわくわく感が先行し、心が高揚していたことを思いだします。

◎事件とヒロイン
1997年3月9日の夜、渋谷区円山町にある井の頭線神泉駅前の木造アパートで、渡邊泰子さんは何者かによって絞殺されました。もう7年になります。

その後、犯人としてネパール国籍の青年が逮捕起訴されました。一審無罪にもかかわらず、二審は無期懲役、最高裁も門前払いで判決は確定しました。文献を読むと、この有罪判決は大きな疑問です。だから私は“何者か”と書きました。そして、この文章ではその事件ではなく、事件へ至る被害者の生きてきた様態を考えてみたいと思います。

渡邊さんは死亡当時39才でした。日本を代表する大企業の東京電力、その経済調査部門の管理職でした。杉並区西永福在住、地元の公立中学から慶応女子高を経て、慶応義塾大学経済学部卒、総合職として東電に入社したエリートOLだったのです(OLというヘンな名称は使いたくないのですが、この事件が『東電OL殺人事件』といわれているので、やむなくそう表現しました)。

昼の顔はそうでも、夜は円山町の有名な“立ちんぼ”の売春婦でした。事件のあった日は土曜日でしたが、昼から五反田のデリヘル(デリバリーヘルス)業者『マゾっこ宅配便』の事務所に詰め、お客がつかずに夕方退店して渋谷へ。なじみの初老の客と7時から10時頃までラブホテルで“営業”し、11時半頃、空き部屋だった事件現場に男と連れだって入っていったのが目撃されています。
家族は母と妹。父は彼女が20才のとき、東電役員目前の52才でガンに命を奪われました。母は室町時代からの名門の出身で日本女子大卒、母の兄弟はみな国立大卒の医師です。妹は30才ちょっと、東京女子大を出て大手メーカーの本社に勤務していました。

 

渡邊さんは中学・高校・大学を通じてトップクラスの成績だったそうです。学生時代も恋愛経験の話はなく、30才を前にして妻子ある上司に恋をしたものの破れたといった、ありきたりの話がひとつ、ささやかれているだけです。

その彼女の“転落”が始まったのは1989年から。渋谷あたりのナイトクラブのホステスとして水商売に足を踏み入れたらしいのですが、91年頃からは、もう円山町に出没する売春婦になっています。それから6年後、渋谷の町で冷たい骸となって彼女の人生は幕を閉じました。その凄絶な人生について(とうてい無理と思いつつも)考えてみたいと思います。

誰もが感ずる疑問の第一は「なぜ売春婦なのか?」だと思います。このさい「なぜ堕落したのか?」といった質問は陳腐です。人は誰でも堕落するし、いやむしろ堕落している(現に私も!)のですから。でも売春婦となると、「そこまで激烈なことは……」という躊躇があります。

たしかに違うと思います。いま“娼婦”ではなく“売春婦”という語を使っています。たとえば「女は誰でも娼婦になれる」とは思います。だが売春婦となるには距離がありすぎるのではないでしょうか? 援助交際、素敵なおじさまとの夜、経験したい課長のテクニック、とかなんとか。まぁいろいろです。でもそれらの行為は“娼婦”でくくられるとしても、“売春婦”とはいえない。そこまで切実じゃないといいますか……。そんなものではないでしょうか?

でも渡邊さんは“娼婦”ではない、まごうことなき“売春婦”です。彼女の数年に及ぶ『売春手帳』には、克明に相手(なじみなら名前、でなければ特徴など)と受け取った料金が記載してありました。しかも年中無休でした。また、1日4人というノルマを自らに課していました。

彼女は誰か悪い男に引きずり込まれて、春をひさいでいたのではありません。ヒモもヤクザも関係なく、勝手に一人で夜鷹(ストリートガール)の“営業”をしていたのです。年中無休も1日のノルマも、誰に強制されたというものではないのです。

では、なぜなのでしょう?

経済的な要因でしょうか? そんなことはありません。日本を代表する大企業の管理職として、年収1000万円以上はもらっていたはずですから、経済的に困窮していたとは思えません。しかし、経済的な原因でないと、世間としては“なにがなにやら分からなくなる”ので“困惑”します。だから、しつこくこのことはささやかれました。「会社の金にアナをあけた補填のため」とか「ネパールの学校建設のため」とかです。全部メディアのウソでした。

肉体的要因? つまり“スキなのだ”という説はどうでしょう。ところが彼女と接触した男たちの証言では、彼女は不感症に近く声をたてない、とてもスキとは思えないというのです。

彼女は円山町で有名でした。彼女が殺されて39才だと知れたとき、みんな驚いたといいます。「そんなに若かったのか!」と。実際彼女の肉体はガリガリで、臀部の肉は落ちて、老婆のようだったといいます。いまは『泰子地蔵』といわれている道玄坂上のお地蔵さんの前で、クリーム色のコートにショルダーバッグという変わらぬ格好で、雨の日も風邪の日も立ちんぼをしていたのです。「セックスしませんか? 2万円です」とか、「ねぇ、お茶飲みましょう」とか、誘う言葉は違っていても、自他共に認める“商売女”であったことは間違いありません。

彼女はノルマを果たすと、遅くとも渋谷発0時半の終電で帰宅していました。お客と“泊まり”をすることはなかったのです。必ず母と妹のいる家に帰って、翌朝9時には新橋の東電本社に出勤していたのです。
そして彼女が売春婦をしていることは、家族も東電の同僚も部下も、みんな知っていたのです。……なんと!

第2回に続く...