◎このノートについて(私的私語)
このノートは、佐野眞一さんの2冊の書、『東電OL殺人事件』と『東電OL症候群』(いずれも新潮文庫)の読書ノートです。昨年、事件被害者の渡邊泰子さんと同じような年まわりになったこともあり、記憶の隅にひっかかっていたものを確認したくて『事件』の文庫本を手にとって読んでみたら、そのあまりの衝撃に打ちのめされてしまったのです。場面的には、「なんかねぇ……」とつぶやいて呆然となってあとが続かないというか、そんな感じでした。
次の『症候群』には、多くの同世代の女性たちが“自らの内なる渡邊泰子”に直面し、精神の平衡を失して悩んでいるといった状況が報告されていました。これらは、
・ それなりの学歴を獲得するために払った努力と、それに反して報われない社会的なポジションの問題
・ 優しく暖かかった父と娘との、他にはうかがいしれない濃密な感情の記憶と動物的成長過程によって、ついには破綻していく悲劇
・ 性的不感症あるいはニンフォマニアとして自覚される、自らの内部の違和感
などを指しているようです。
私としても、私なりにそういった環境と経験を共通していることを否定はしません。しかし、いまの私は「自らの内なる……」と語る人とは距離を置きたいと思います。誰もが内面に持っている自らを制御できない部分を、死者に仮託して合理化しているように感じるからです。
事件のあった1997年は、私にとってもターニングポイントの時でした。まず、私がいま住んでいるフランスに居を移した年でした。また、早春の朝、出勤途上の首都高でアイスバーンにのってスピンし、車を大破させた事故も経験しました。そのとき私は無傷だったのですが、それは幸運以外のなにものでもなく、まさにいのちを拾った経験でした。
「からだはナマなのだ」と皮膚感覚で理解し、保証のない未来に託するよりも、むしろ後悔なく今を生きることのほうが大事なのだと思ったのです。いつなにがあってもいい、なにがあろうと大いなるモノの決めること、怖がる必要はないのです。その思いが渡仏の決意を後押ししたのかもしれません。“フランスに行く”のに、“知らないところに行く”不安感よりも未知への興味でわくわく感が先行し、心が高揚していたことを思いだします。
◎事件とヒロイン
1997年3月9日の夜、渋谷区円山町にある井の頭線神泉駅前の木造アパートで、渡邊泰子さんは何者かによって絞殺されました。もう7年になります。
その後、犯人としてネパール国籍の青年が逮捕起訴されました。一審無罪にもかかわらず、二審は無期懲役、最高裁も門前払いで判決は確定しました。文献を読むと、この有罪判決は大きな疑問です。だから私は“何者か”と書きました。そして、この文章ではその事件ではなく、事件へ至る被害者の生きてきた様態を考えてみたいと思います。
渡邊さんは死亡当時39才でした。日本を代表する大企業の東京電力、その経済調査部門の管理職でした。杉並区西永福在住、地元の公立中学から慶応女子高を経て、慶応義塾大学経済学部卒、総合職として東電に入社したエリートOLだったのです(OLというヘンな名称は使いたくないのですが、この事件が『東電OL殺人事件』といわれているので、やむなくそう表現しました)。
昼の顔はそうでも、夜は円山町の有名な“立ちんぼ”の売春婦でした。事件のあった日は土曜日でしたが、昼から五反田のデリヘル(デリバリーヘルス)業者『マゾっこ宅配便』の事務所に詰め、お客がつかずに夕方退店して渋谷へ。なじみの初老の客と7時から10時頃までラブホテルで“営業”し、11時半頃、空き部屋だった事件現場に男と連れだって入っていったのが目撃されています。
家族は母と妹。父は彼女が20才のとき、東電役員目前の52才でガンに命を奪われました。母は室町時代からの名門の出身で日本女子大卒、母の兄弟はみな国立大卒の医師です。妹は30才ちょっと、東京女子大を出て大手メーカーの本社に勤務していました。
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