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生きる重さ (2007.01.27)
近年の日本の法廷では死刑判決があいついでいるように思います。パッと調べただけでも、2000年以降ですでに20件あまり。それらの犯罪の残忍性と罪なく犠牲になった人々を思うと判決は至当なものと思うしかないのでしょう。けれど思いを換えて、もし私が被告人の子どもだったら……と想像すると、いたたまれない気持ちにもなってきます。「私の血の中には紛れもなく“世の中から抹殺されるべき”血が流れているのか」と思うと!
しかし、果たしてそうなのでしょうか? 犯罪と無関係だからといって、私たちは善人の子孫ばかりなのでしょうか?
人類は、その発生のときから飢餓の恐怖に苛まれてきました。現在でも凍土の地や政情の不安定などで餓死に瀕している人々がいることを忘れてはならないと思いますが、全体的にはようやく食糧資源をコントロールできるようになり、人類は“飢えへの恐怖”から解き放たれて日々を安穏に暮らせるようになりました。けれど、ほんの1世紀ほど(むしろ数10年ほどといったほうが正しいのかもしれません)前まで、地球上の人間の多くが飢餓と戦いつづけていたことも事実なのです。いまとなっては誰もが忘れ去っていたとしても……。
飢えは死に至ることが恐怖の本質なのではありません。飢えによって自分を制御できなくなる――死なないためには他人はおろか、親兄弟を突き飛ばしても目先の食を自らの口に入れるであろう――ことに直面することが恐怖なのです。露呈した自分の内なる醜さを、見つめなければならない悲痛さはいかばかりでありましょう。いまの私たちはそうやって生き延びた者たちの子孫でないといえるのでしょうか?
人間の歴史とは戦争と革命、疫病と災害の繰り返しでありました。社会が混乱し崩壊をきたすときに最初にほろんでいくのは、その社会のもっとも良心的な部分に属する人々だといわれます。かつての戦争で純真に国を憂いた若者は散華し、そそのかした大人たちは占領軍に追従して豊かになりました。いじめで自らのいのちを絶ったとしても、役人も政治家も世の中も変わることはありません。
生存競争、優勝劣敗、弱肉強食、自然淘汰。その結果として、遺伝子DNAを脈々と後の世に伝えていくのはどういった人間なのでしょう? まさに私たちは「自らの血は濁っている」と考えるほうが、より正解に近いのかも知れません。
そう考えてみれば、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の言葉が惻々と染みわたってきます。人は生きていく営為のなかで悪人たらざるをえない。いや、その哀しみを抱えて歩くからこそ人間なのだとも思うのです。
自らの内なる悪を注視できない者を、人間とは呼びたくありません。たとえば、「人からだまされるのはバカだ、人をだますようになれ」とか「いじめられるより、いじめる側になれ」とか──。きょうびの若者風にいえば、「世の中は仕掛ける側の人間と仕掛けられる側の人間しかいない、だから仕掛ける側にいるのだ」とかいうことにでもなるのでしょう。人間であれば、こういった言葉を吐くことはありません。
前途は暗澹たるものに思えます。しかしながら、「情けは人のためならず」という言葉もあります。他者の痛みに同情するのは、その人のためではなく自分のためなのです。周り回って“陰徳あれば陽報あり”となるからではありません。他者の悲しみを自分の悲しみにできる自らを確認できることで、「あぁ、私はまだ人間でいる」と思える幸福を享受できるからなのです。
殺された人間の悲しみは慰撫されなければいけませんが、それと等しく殺した人間の悲しみにも思いを馳せることができなければ、人は人たりえないのです。生きていく一歩一歩のなんと重いことなのでしょう。
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