Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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この世は借りもの?(2006.11.24)


おかげさまで2冊目となる『Dr.Manaのすっぴん肌力』を上梓することができました。ありがとうございました。
さる友人によると、「まぁ、オリーブというよりもポパイが近いというか…」だそうで(?_?)、お恥ずかしい限りなのですが……。

ところで、私だって美容だとかエイジングレスとか言っていても、それだけをしゃにむに追求するだけの人生とは思っていないとか、柄にもなく韜晦(とうかい)することがあって、あるとき友人にメールで「しょせんこの世は借りの姿だもの」というフレーズを送ったのです。そうしたらこんな返事が返ってきました。

「この世は借りの姿」というフレーズを読んで、つい「"借り"ではなくて"仮の姿"でしょう」とほほえましく思っていたのですが、必ずしもそんな単純なものではないと考え直してみました。ひょっとしたらあなたの用法が正しく、世の中が間違っているのかもしれない?

あっ、また、くるぶしの深さもない教養がばれちった、と思いました。旅先からの絵はがきに「これから市内観“行”に行ってきます」としたためたり、「お香を“炊”く」のは日常茶飯事ですから、いまさら恥ずかしくもないのですが、私の用法が正しいかもしれないというのは驚きました。
ひょっとして“けがの功名”かしら? ……まさか、ねぇ。

一般的に「この世は仮の姿」という表現には、本質は別にあるのだけれど仮装または仮面としての現世の姿があるという意味があるのでしょう。
さて、権現という言葉があますが、それはそのまま「仮に現れた姿」を意味します。神仏習合思想による本地垂迹説では、日本の神々の真実はさまざまな仏であると説きます。本当の姿である仏(本地仏)が神という仮の姿となって現れている、と。伊勢の天照大神の本地は大日如来、八幡神は阿弥陀如来なのだそうです。徳川家康の神号は東照大権現ですが、その本地仏は薬師如来とされています。薬師如来が徳川家康を仮の姿として出現し、戦乱を収めて平和な国にしたというのでしょうか。

いずれにせよ真実は仮の姿のうしろに隠れているのです。仏教では諸行無常であって、永遠なるものはひとつもない、この世はすべて虚仮であると断じます。だからこそ解脱する、解脱が難しければ往生を遂げること。往生した後にある浄土こそが真実の世界であるというのでしょう。それがあるからこそ、人は悪をなすことができるのかもしれません。けれど、それで終わりではありません。仏教の説く輪廻と転生――地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道――の六道を無限に巡る"永遠"の、なにが本質なのでしょうか? そもそも永遠なるものはないはずですよね?

話は急に飛びますが、137億年まえのビッグバンから宇宙は始まり、膨張をつづけています。そしてすべての物質の組成は、ビッグバン以来なにも変化していないといわれています。しかもエネルギーの総和は変化せず(熱力学第1法則:エネルギー保存)、常に安定から不安定状況に向かい(熱力学第2法則:エントロピー増大)、エネルギーと質量は同じもの(相対性理論)、ということは絶対的真理なのです。
質量とエネルギーが本質だとしても、姿も形もないのですから、目で見たり耳で聞いたり手で触れたりすることはできません。目で見たり耳で聞いたり手で触ることのできるものは、真実そのものではありません。つまり科学的にもこの世は仮の姿でしかないのです。
だからといって……なに? 少しもすっきりしませんよね?むしろますますわけがわからなくなってきました。

でも“仮”ではなく“借り”だったらどうでしょう? しかも“この世”という漠然としたものではなく、自分自身の“この身”だとしたら。
うっすら霧が晴れてきたような気がしませんか?


この身は罌粟(けし)の実ほどの卑小なものにすぎないとしても、自分自身にとってはかけがえのない唯一無二のものに違いありません。いかに輪廻があり転生があったとしても、いま現在の1回きりの“生”はこの身だけのものなのです。その“生”を全うするために神(あるいは"大いなるもの")から借りた姿こそ“この身”なのではないでしょうか? “この身は借りもの”としてこの世を生きる、それは一時しのぎの“権現”ではなく、天命ですらあると感じるのです。
そこには「なにをどう借りるか」という借りる側の意思があるようでいて、実は神(あるいは" 大いなるもの")の思し召しという人智を超えた使命が託されている、ともいえます。この身は自分だけのこの身ではない、両親からの、人類からの、宇宙からの借りものであり、だからこそ大事にしなければならないのです。肉体だけでなく精神も当然に“この身”のうちなのですから、必ずやなんらかの使命をもっているはずです。あだおろそかに扱ってはいけません。職業はたんなる"仕事"ではありません。ドイツ語では Beruf(召命)ともいい、英語ではGifted(神よりの賜)ともいいます。なにより日本語では天職というではありませんか。
「この身は借りもの」という意識の果てに、仏教的時間概念との融合も見えてきます。神(あるいは"大いなるもの")はそもそもが全知全能の存在なのですから、人間の考えてきた哲学の止揚も、また考えられないことではないと思います。

このままでは“けがの功名”というよりも、けがしないうちに“下手の考え休むに似たり”だと思いますが、秋の夜長、考えるきっかけとして……。