Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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☆ ルーマニア紀行・ドラキュラ伝説探訪(2012.11.06)



ブログの方で“ドラキュラの国の本当のお話”として6回に分けてご紹介しました。

第1回 プロローグ http://ameblo.jp/dr-mana/entry-11341100758.html
第2回 現地のドラキュラ像 http://ameblo.jp/dr-mana/entry-11342096892.html
第3回 トゥルゴビシュテ城塞跡 http://ameblo.jp/dr-mana/entry-11348314292.html
第4回 ポエナリ城塞跡 http://ameblo.jp/dr-mana/entry-11370749063.html
第5回 ドラキュラの生家 http://ameblo.jp/dr-mana/entry-11393659139.html
第6回 ドラキュラ小説上のモデルであるブラン城 http://ameblo.jp/dr-mana/entry-11397970204.html


そして、今回がそれらの最終編になります。


今回は、ヴラド公のお墓について御紹介しましょう。

ブカレストからクルマで1時間ほど、スナゴウという風光明媚な湖の中の、小さな島に建つ修道院にあります。



2年前までは小舟でしかアプローチできず、情緒的とはいえ時間とお金がかかりましたが、今では橋が完成したために歩いて渡れます。抜群に便利になりました。



1476年末、ヴラド公はブカレスト付近でオスマン帝国と戦い、戦死しました。首はトルコ軍によって塩漬けにされ、コンスタンチノープル(現イスタンブール)に持ち帰られたと伝えられています。

よって、この修道院には胴だけの遺体が埋葬されているはずでした。が、20世紀になって発掘作業が行われたところ、確かに中世時代の身分の高そうな人の遺骨が見つかったのですが、なぜかしっかり頭部もついていたのだとか。



美しいフレスコ画に囲まれた内部。祭壇の前にヴラド公のお墓があります。静謐な空気につつまれておりました。


最後に、なぜルーマニア人に愛されていたヴラド公が500年後の眠りから覚め、吸血鬼ドラキュラとなって現代に蘇ってしまったのか、検証してみたいと思います。

本物の“吸血鬼”は、実は他に存在していました。実在の連続殺人者、ハンガリー生まれのバートリ・エルジェーベト伯爵夫人です。

身分が非常に高いこともあり、彼女による数々の拷問、残虐行為は長い間見て見ぬふりをされておりました。エキセントリックで淫乱、サディスティックで、時に悪魔崇拝をしていたといわれています。とりわけ若い処女の“血”にこだわり、新鮮な血の風呂に浸かったり、直に動脈血のシャワーを浴びたり、そのまま飲み干したりして、死体は無残に打ち捨てていたといわれます。

このエルジェーベトをモデルにしたのが、アイルランドの小説家、レファニュの作品である女吸血鬼『カーミラ』です。 ブラム・ストーカーは、
文壇ではレファニュの後輩にあたります。この『カーミラ』に影響され、吸血鬼小説を書きたくてしょうがなかったブラム・ストーカーは、別のモデルを探していました。そして彼の描く吸血鬼の主人公は“男”でなくてはいけなかったのです。

その流れで、ルーマニアとはおそらく仲のあまりよろしくないと思われる国、ハンガリーの歴史学者から智恵をもらい、結果、吸血鬼ドラキュラが誕生したといわれます。ちなみにルーマニアは、ブルガリア、ロシア、ドイツとも微妙のようです。^^;

やり方があまりにドラスティックで残虐ではあったとはいえ、中世の乱世の時代に、信念をもって国を(例えそれが道義的に行き過ぎていたとしても)守った英雄ドラキュラと、自己の快楽や享楽、そして自らの若さと美貌を保つ目的=エゴのためだけに残虐行為を繰り返していたおぞましい狂人エルジェーベト。このふたりをひとからげにするのはどうかなぁ……と思ってしまうのでした。

そんなわけで、駆け足で巡ったわりにはスッポリ深くハマってしまったドラキュラ紀行も、これでおしまいです。
最後に、燦々と日が注ぐトランシルヴァニア地方の美しい自然をどうぞ。