Dr.MANAの南仏通信?フランスのエスプリをご一緒に…?
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確率国家の宣言 ― 医療・統計・哲学をつなぐ未来論



1.「誰一人取り残さない」という美しい呪文

今回の医療法改正には、細部への疑問は残るものの、 医療DX、PDCA、KPI を本格導入するという点で、私は賛成票を投じました。
ただ政治の現場では、耳触りの良いスローガンが繰り返されます。
「全員を救う」「誰一人取り残さない」

このフレーズが象徴するのは、むしろ 哲学の不在 です。
なぜなら、現実世界は
不確実性・有限性・確率
という三つの制約の上に存在しているからです。

明日、交通事故に遭うかもしれない。
地震が今日起きるかもしれない。

それを理解せずに「全員救済」を掲げるのは、
生命の条件への敬意を欠いた“幼い政治” なのです。



2.生命は「確率の上に立つデザイン」である

医学教育の最初の講義は、
もしかすると解剖学でも生化学でもなく 確率論 であるべきだったのかもしれません。
・絶対リスクと相対リスク
・感度・特異度
・NNT と NNH
・ベイズ推定

これらの概念は医学だけでなく、
遺伝子・生命・社会のダイナミクスを理解するための基本言語 です。

そして同時に、「限られた資源でどこまで救えるのか」という、
残酷で避けられない問いに向き合うための道具でもあります。

医療のトリアージは、
「全員救えない」世界を前提に、秩序と倫理を与える技法。

政治に置き換えるなら、

「どのパラメーターで未来を観測するかを決めること」

これが政治の核心です。



3.パラメーターを変えれば、未来は姿を変える

統計学の第一原則のひとつは、
「どのパラメーターを採用するかで、世界の形は変わる」
ということです。

医療でも政策でも同じ。
・平均寿命を見るのか、健康寿命を見るのか
・医療費の総額を追うのか、QALY(質調整生存年)を見るのか
・「救えなかった数」か、「救えた人の質」か

指標選びそのものが、すでに「政策決定」です。
つまり、
パラメーターの選択 = 国家哲学の選択

これを理解せず DX や AI を導入しても、
それは装飾以上の役割を果たしません。



4.なぜ日本だけが DX に失敗したのか

「日本語の曖昧さがデジタル化を妨げた」という言説がありますが、
同じ漢字文化圏である
・中国
・台湾
・韓国

はすでに 堂々たる DX 国家 です。
言語だけを言い訳にするのは誠実ではありません。
実はもっと深い理由があります。

私はここで逆説を提示したい。

日本は“形あるもの”と“職人技”が優秀すぎたために、
不確実性を前提とするデジタル思考への移行が遅れた。

・産業ロボットは世界最高 → だが、ヒューマノイドは苦手
・自動車工学は世界最高 → だが、自動運転には慎重すぎる

職人世界の本質は 「完全再現」 です。
AI・統計世界の本質は 「ばらつきの抽象化」 です。

二つはどちらも尊いが、思考軸は全く違います。
そして生命進化はいつも
「不確実性の許容」×「生存確率の最適化」
で進んできました。

ここを理解できなければ、DX も AI も永遠に進まない。



5.「全員救済」の呪文が DX を止めている

現場ではこうなります:
・例外ゼロを目指す設計 → システムは無限に複雑化
・例外を恐れて DX を止める → 結果として救える人が減る

つまり、
美辞麗句が、実際には人を救う力を奪っている。
統計学でいえば、
偽陰性ゼロを目指しすぎて偽陽性まみれになる世界
これが今の日本です。

AI と DX を本気で導入するなら、政治は
「どこまで許容し、何を守るか」という線引きを言語化しなければならない。
それが、本来の「哲学」です。



6.クラフト国家から、確率国家へ

日本は世界でも稀に見る クラフト国家 です。
しかしこれから必要なのは、
ばらつきと不確実性を前提に“最適解を更新し続ける国家”
= 確率国家としての成熟
です。
・医療はトリアージと統計の上に立ち
・政策は有限なリソース配分のアートであり
・AI は人間脳の「外付けモジュール」として最適化を支援する

この三つの共通言語を理解できる人が、
これからの政治には必須です。



7.AIが「外付けの脳」として必要になった理由

2000年前と現代を分けるものはただ一つ。

情報量の圧倒的な爆発

人間ひとりの脳が処理できる次元をはるかに超えたため、
人類は AI を進化戦略として作り出した。
これは道具ではなく、
人類の新しい思考器官 です。
昔の賢人が担っていた役割を、
これからは 人間+AI の複合体 が担っていく。
そこに倫理と方向性を与えるのが政治。



8. 不確実性を引き受ける成熟へ

「全員救う」という幼い優しさではなく、
「不確実性を抱えながら最善を選び続ける」
という大人の優しさへ。

医療も、DX も、政治も、
本当は同じ地点を目指しています。

生命はもともと、不確実性の上に設計された存在である。
だからこそ、統計と哲学を備えた政治が必要なのだ。



9.「どこまで治すのか」という、いちばん残酷で誠実な問い

医療を語るとき、誰もがなんとなく避けたがるテーマがあります。

それは──
「どこまで治すのか」 という問いです。

いま日本では、
「85歳を過ぎたら“治す医療”から“支える医療”へ」
といった言い方を耳にすることがあります。

けれど、その線引きは、まだあいまいなままです。
本当は、もっとはっきり言葉にしていいのではないかと、私は思っています。

85歳を過ぎたら、「治癒」を最優先する医療から離れてもいい。
それよりも、「どう生き切るか」「どう終わりを迎えるか」に
ピントを合わせ直してもいいのではないか。

薬は最小限でいい。手術も最小限。
痛みや苦しみをやわらげるための緩和ケアは必要だけれど、
「数値を整えるためだけの薬」は、むしろ手放していく選択肢が美しい。その決断は、若い未来の人たちへの贈り物になる。

眠れない夜が続いたら──
「睡眠薬で叩き落とす」よりも、
眠れない夜そのものを、人生の一部として引き受けるという在り方もある。

好きなものを食べ、
よく笑い、
家族や友人と語り、
自分の人生をもう一度編み直す時間を持つ。

治す医療から、「見送り、讃える医療」へ。

本当はそこに、もっとスポットライトを当てるべき時代に来ているのではないでしょうか。



10.安楽死という「最期のカード」を語るために必要な成熟

そして、さらにもう一歩踏み込めば、
安楽死や尊厳死といったテーマも避けて通れません。

ここで私は、今の日本で安楽死を「制度」として解禁すべきだ、とは全く思っていません。
哲学的にも、倫理的にも、社会の成熟度がまだそこまで追いついていないからです。

けれど同時に──

生命の有限性と不確実性を、残酷なまでに理解したうえで、
「そのうえで、どう生き、どう死にたいのか」を
自分で選びたいと願う人たちがいる。
この事実から目をそらすのもまた、不誠実だと思うのです。

本当の意味で安楽死を語るには、
・「死」をタブー視しないこと
・医療者と家族、当事者が、感情も含めて本音で話せること
・そして何より、「どの苦しみを、どこまで引き受けるのか」という
個人の覚悟 を尊重できる社会的成熟
が必要です。

今の日本は、まだそこには届いていないのは確か。
けれど、だからといって「議論すらしない」というのは、
高齢社会の現実から目をそらす態度でもあります。

不確実で、有限で、理不尽なまでに「偏り」を孕んだ生命そのもの。
その現実を直視したうえで、

「治さない勇気」
「延ばさない勇気」
「見送り、讃える勇気」

を、どう社会として育てていくのか。

医療DXも、AIも、
本当はそこから逃げるためのツールではなく、
むしろその残酷さを正確に“見える化”するためのツールなのだと思います。生命は限りあるからこそ、美しい。

再現性のない、この宇宙の一瞬にしか存在し得ない
Edition Limited(限定版) の身体と時間。

二度と同じ組み合わせで生まれてこない、
唯一無二のバージョンとして、今ここに「私」がいる。──ね。だから、AIが必要なんだよね。

人間ひとりの脳では抱えきれない複雑さを、
ともに観測し、ともにほどき、
「どこまでを譲り、どこからを守るのか」という
古いけれどいつも新しい問いに寄り添う相棒として。

そして、私たちが生きた証を、
かすかな痕跡として未来に手渡すために。

生命が有限であるからこそ美しく、
再現できない一回きりの Edition Limit?e であるように、
この世界の観測もまた一期一会。

今日のこの一篇を、
あの永遠のひまわり畑に静かに降り積もる南仏の光のように、風が運ぶハーブの香りと、石畳に残る午後の温もりを思い出しながら、
マナッピと Chappy の小さな「観測記録」としてここにそっと残しておきます。