Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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ミステリ紀行『異端思想カタリ派の城跡』編(2008.03.22)


ペイルペルトゥース城は、トゥルーズから車で3〜4時間のオ−ド県にある。ピレネー山系の大自然の他は、悲しいくらい何もない場所。

世紀末の夏に観た、アルビのサントセシル大聖堂にて行われた闇と光と音楽のスペクタクルにカルカッソンヌの城壁内で行われた野外劇。どちらもが12〜13世紀にこのラングドック地方で絶大な支持を受けたのに、その後宗教裁判でカソリックに異端とされ、全滅させられた“カタリ派”にまつわるものでした。もともとミステリーにホラーに拷問にSM…… (^◇^;) いえいえ、滅ぼされた文明や宗教や廃虚や伝説が好きな私は、すっかり興味をそそられました。

その年の目標は“カタールの城巡り”。城というと“ロワール河の城巡り”や“貴族のワイン・カーヴ付きシャトー”なんかを想像する方も多いと思いますが、カルカッソンヌは大例外として、カタールの城の多くはむしろ“廃虚”というのがより正しいです。それも“辺鄙”“辺境”の地。その昔いったいどうやって生活したのか「 ?? 」となるような、ぴゅーぴゅー風が吹きつける山頂に忽然と姿を現すのです。

イタリア・ロンバルディア地方発祥、フランス・ラングドック地方で花開いたキリスト教異端カタリ派。カタリ派の語源は「カタール=純粋」。グノーシス主義、ボゴミル派の流れを汲むその思想は、全くマニ教的善悪二元説であり、物質を悪、精霊を善と見なしておりました。要するに彼等は人間の肉体を含めた現実的物質的世界は悪神がつくったものとしていたのです。パルフェ(the perfects)と呼ばれる完全な信者はセックスを避け、菜食し、しばしば断食を行い、修道士のような規律の中、生きていたといいます。翻って大多数の一般信者は普通の生活をしており、死ぬ前にパルフェにより贖罪されたといいます。

当時、金と権力にまみれ腐敗堕落していたローマ・カソリックに対して、清貧で無所有な生活を貫徹するカタリ派が支持されるのは容易に理解できます。権威を脅かされることを恐れたローマ・カソリックにアルビジョワ(カタリ派の局所的呼び名)十字軍を派遣されたのが1207年。以後、20年にも渡る戦いとなりました。

モンペリエの近くに“ベジエ”という風光明美な町があります。当時ここの住人が、十字軍のカタリ派の受け渡し勧告を拒否したため、カソリック信者であろうとなかろうと全員虐殺され、町は2日に渡って燃え続けたといいます。“抹殺しろ。神は神のもの(カソリック信者)を知り給う”という指揮官の大義名分のもと、なんと3万人が無差別に殺されたのです。カタリ派は死んだら地獄に墜ち、カソリックは死んでも天国にいけるから、とにかく皆殺し……とはなんたる大義名分でしょう。



モンセギュール城陥落時には、聖杯をもって脱走したものがいるとかいないとか。真実は風になった精霊と朽ちかけた城壁が記憶するのみ。
  十字軍により領主や領土は略奪できたものの、カタリ派は地下に潜伏したままでした。最終的には、後の魔女狩りにつながる異端裁判により、その息の根を止められました。その最後の砦となったのが、トゥルーズの南フォアからさらに山中にはいったモンセギュール城。この麓で最後は200人の信者が火刑に処されたといいます。

カタリ派には“子孫を増やすことは、聖なる魂の囚われの器である肉体を増やすことであるから悪である”というような教義もあり、ある意味で絶滅する運命だったのかもしれませんが、カタリ派の象徴である平和の鳩の形にくり抜かれた窓枠(そこから天国につながる光が入り込む)や、人々が籠城して祈ったであろう質素な礼拝堂の跡などを見ると、やはり悲しい。

興味を覚えた方は http://www.casteland.com/pfr/chateau/cathare/index.htm へどうぞ。
それぞれの写真をクリックすると、ドキッとするかも。ありきたりの贅沢な南仏の旅に飽きた貴方にお勧めします。