〈悔悛するマグダラのマリア〉 1530年〜ティツィアーノ・フレンツェ・ビッティ美術館 |
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聖母マリアが無垢の美しさだとすると、こちらマグダラのマリアは、官能に満ちた女のにおいをまき散らしていますよね。信じてはいない異国の神に(いや異国の神ならでは)赦される思いは、砂漠のオアシスの心地なのです。
そう、私はいつも赦されます。きっと貴方も……。
ブルゴーニュのなだらかな起伏の上に、ロマネスク調の聖マドレーヌ寺院はある。パリ〜リヨンを結ぶ高速自動車道A6号線──「太陽の自動車道」──をオーセールでおり、国道6号を南下、次いで県道951号にはいれば、やがて進行方向に小高い丘が姿を現す。聖マドレーヌ寺院は、ふもとに展開するヴェズレーの集落を従えるようにこの丘の頂きに建っている。ロマネスク建築としても、その歴史から言っても、数あるブルゴーニュのロマネスク寺院の中では傑出した存在だ。駐日フランス大使として大正天皇の大喪にも参列した20世紀最大のカトリック詩人ポール・クローデルが、「神の栄光を称える子らの集うとこしえの寺院の予兆」とうたい、『ジャン・クリストフ』や『魔の山』の作家ロマン・ロランがついにはこの地で生を終えるほどに愛して止まなかったのが、この寺院なのだ。ポ―ル・クローデルは、ロダンの愛人であり自らも彫刻家だったカミーユ・クローデルの兄である。最近では兄より彼女の方が有名かもしれない。
マドレーヌはギリシア語でマグダラ、サント(聖)・マドレーヌはマグダラのマリアである。イエス・キリストの足を自らの涙で濡らし、自らの髪の毛でこれを拭い、その足に接吻して香油を塗ったと新約聖書ルカによる福音書が伝える罪ある女――彼女がマグダラのマリアだ(7章37節以下)。同じ新約聖書、ヨハネによる福音書のバージョンではこの女はベタニヤのラザロとマルタの妹とされていて、ここでは出自がはっきりしている(12章1節以下)。つまりふたつの異なった伝承が融合して、マグダラのマリア信仰が生まれた。ラザロは有名な「ラザロの復活」のエピソードの主人公で、死後4日目にイエスが墓にはいって「起きよ」と命じて復活せしめた男である(ヨハネによる福音書11章)。
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〈悔悛するマグダラのマリア〉
フヤペ・デ・リペーラ マドリッド プラド美術館
官能とは遠い……初々しいイメージのマリア。 |
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フランス南部プロヴァンス地方では、イエス・キリストの登場はるか以前の古代ギリシア・ローマの時代からギリシア人、ローマ人の植民が盛んだった。マルセイユはギリシア名メッサリアだったし、アルルも古くからのギリシア植民都市である。その他にもプロヴァンス地方には、たくさんの古代ギリシア・ローマ時代の遺跡が点在している。そのプロヴァンスにはイエスの磔刑後、ユダヤ人のキリスト教徒迫害によってパレスチナを追放された、ラザロ、マルタ、マグダラのマリアの3人の兄弟、聖母マリアの妹マリア・ヤコベ、使徒大ヤコブとヨハネの母マリア・サロメらが、食糧もなく、帆も櫂もない一艘の小船に乗ってマルセイユに漂着したという伝承がある。漂着の場所についても異なったバージョンがあり、ジプシーたちはマルセイユよりさらに西のローヌ河のデルタ地帯、カマルグ地方、サント・マリー・ドゥ・ラ・メールに漂着したと信じている。
しかもふたりのマリア(マリア・ヤコベとマリア・サロメ)の黒人の召使サラは、出発の際、陸にとり残されてしまった。しかし嘆き悲しむサラにマリア・サロメが外套を投げかけるとそれが筏となり、小船に乗り込めたという。このサラがジプシーの祖とされている。サント・マリー・ドゥ・ラ・メールは従ってジプシーの聖地で、毎年6月には無数のジプシーたちがこの町に集まってきて盛大に祝う。フランス語でこの地名はSaintes-Maries-de-la-Merと書く。つまりマリアが複数なのだ。海の聖女マリアたちというわけである。
ところで3人目のマリア、マグダラのマリアである。プロヴァンス各地を巡って福音を説いた彼女はサント・ボームの山中にたどり着き、この地の洞窟で33年間祈りと黙想の日々を送ったという。死期が近づいて彼女は山を下り、ふたりのマリア、兄のラザロ、姉のマルタらとやはり一緒に船旅をしてきた聖マクシミヌスによって、最後の聖体拝領を受け天に召されたという。ただし聖書には聖マクシミヌスに関する記述はない。要するにプロヴァンスの伝承が語るマグダラのマリアの生涯は、いかなる意味でもブルゴーニュ地方、ヴェズレーの聖マドレーヌ寺院とは関係がないのだ。11世紀にサント・ボームからマグダラのマリアの遺物が盗まれ、ヴェズレーに移されたという噂がひろがったのである。
以後ヴェズレーの聖マドレーヌ寺院は、巡礼の聖地として善男善女の崇敬を集めたというのだ。もっともこれはプロヴァンス地方の伝承で、ブルゴーニュ側では11世紀初めにマグダラのマリアの遺骨がバディロンという僧によってエルサレムからもたらされたことになっている。パレスチナから聖書の重要な登場人物たちが帆も櫂もない小船に乗ってはるばる地中海を横断し、マルセイユにたどり着いたとする伝承は、荒唐無稽で史実とはみなしがたいし、プロヴァンスではいろいろなマリアの事蹟が混同されている。他方ヴェズレーの側の記録は確かで、本当にマグダラのマリアの遺骨であるかどうかはともかく、僧パディロンがエルサレムから遺骨を持ち帰った事実はあったらしい。
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〈キリストとマグダラのマリア〉
ピーター・ポール・ルーベンス 1618年
福音書『外典』、そして私はイエスの血脈を確信する
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初めこの寺院は、吟遊詩人が歌い継いだ中世の『武勲詩』の英雄、ブルゴーニュ伯、ジラール・ドゥ・ルシヨンによって丘のふもとの村、サン・ペールにベネディクト派尼僧院として建てられた。9世紀半ばのことだ。わが国の平安時代にあたる。しかしこの世紀末、セーヌを遡って来襲したノルマン人、いわゆるヴァイキングたちの攻撃によって尼僧院は廃墟と化す。ジラール・ドゥ・ルシヨンははるかに防御が容易な丘の上に、新たに修道院としてこれを再建した。尼僧院が修道院に変わったわけだ。この寺院には9世紀以来ローマ法皇庁からさまざまな特権が与えられ、そのことが周囲の封建諸侯の反感を招き、さまざまな災厄を寺院にもたらすことにもなった。現在目にする建物は12世紀の大火災の後、再建されたものである。
12世紀、聖ベルナールはこの地でフランス国王ルイ7世を前に第2回十字軍の必要を説いた(1136年3月31日)が、この頃からの1世紀間、聖マドレーヌ寺院の繁栄は絶頂を極める。「罪を許された女」マグダラのマリアの遺物を得て寺院自体が巡礼の聖地となり、スペインのサン・チアゴ・デ・コンポステラへの長躯の巡礼の起点ともなった。1190年の第3回十字軍派遣の勅令はこの地で発せられたわけではないが、英国のリチャード獅子心王とフランスのフィリップ・オーギュスト(フィリップ尊厳王)が出発にあたって会したのは、この地である。
中世ヨーロッパの教会は、現在の役場、公会堂、カルチャー・センターなどの役割を併せ持っていた。出生や死亡を記録するのは教会だったし、側廊は集会の場であった。各地から集まる巡礼たちは無筆であったから、もちろんラテン語の聖書など読めない。聖書の物語はナルテックスと呼ばれる玄関部の支柱や、側廊と、ネフと呼ばれる内陣を隔てるたくさんの支柱上部(この柱頭部分をシャピトゥーという)の彫刻で表現され、聖職者が今のガイドのように堂内を巡りながら説明したわけだ。ヴェズレーもまた例外ではない。ただその表現は、例えば非常に写実的なシャルトルの大聖堂の大理石彫刻群に比べるとはるかに牧歌的で、いかにもガロ=ロマンという感じがする。つまりローマ人と土着のゴール(ケルト)人の文化が融合した素朴さが感じられる。もっとも歴史的には、ガロ=ロマン時代とは正確にはカエサルがガリアの地を征服した紀元1世紀からクロービスがキリスト教に改宗してフランク王国の基礎を固める5世紀までをさすから、ヴェズレーの彫刻は厳密にはガロ=ロマン期のものではないが――。
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〈マグダラのマリア〉
クレヴェルリ アムステルダム国立美術館 1480年〜 |
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シャピトゥーの彫刻はエデンの園のアダムとイヴ、カインとアベル、ダビデとゴリアテなど、旧約聖書中の物語を題材とするものが多いが、洗礼者ヨハネの生涯とその斬首、貧者ラザロの死など、新約聖書中の物語もある。この寺院が別名「石の聖書」とも呼ばれる所以だ。
また数々の聖人伝も興味深い。北側支柱のひとつの聖ユージェーヌの物語は、その中でも特に印象的だ。中央の女性が胸をはだけ、右側の男性が驚愕の表情を浮かべ、左側の女性は不安な表情をしている。この中央の女性が聖ユージェーヌである。彼女は異教徒の裁判官フィリップの娘で、神の召命を受けて出奔し、その性を偽って男子のみの修道院に入って研鑚を積み、ついには修道院長となる。その彼女に邪な恋心を抱いた女から、恋のかなわぬはらいせに暴行のかどで彼女は訴えられる。無実の証しをたてるため父なる裁判官の前で彼女は胸をはだけ、自分が女であることを明かす。この修道院長こそ長く行方不明だった実の娘であったことを知った父親の驚愕の表情、着衣に手をかけて胸を開いているユージェーヌの必死の面持ちなどが、実に素朴に表現されている。
このヴェズレーの聖マドレーヌ寺院に関しては、もうひとつ特筆すべきことがある。ヴェズレーに限らず、中世カトリックの教会堂は全て東方、エルサレムを向いて建てられている。すなわち正面入り口は西側になる。それだけなら他の教会と何の変わりもないが、ヴェズレーの寺院には他に例を見ない特徴がある。ここでは毎年6月の夏至の日の正午になると、丸い高窓から注ぐ陽光が真中の祭壇への道に一直線に並ぶのである。建設当時使用されていたユリウス暦正午は、サマータイムのもとでの太陽暦では午後2時にあたる。だから現代では夏至の日の午後2時になると、丸い陽光が点々と祭壇へいたる中央の道に浮かぶのである。毎年この日になると、信者たちがそのありさまを見ようと集まってくる。コンピュータなどない時代に夏至の日の太陽の高度を測定し、中央の祭壇への道に陽光が降り注ぐように丸窓の位置を決めたわけだ。もっともアレクサンドリアのエラトステネスが地球の円周を4万キロと計算したのは、これよりさらに1000年以上昔のことだから、天体の運行によって地上の位置関係を定めることは大昔からの人間の知恵ではあった。
それでも、きっと、夏至の日にこの地を訪れたいにしえの巡礼者たちは、まさに神の奇跡を目の当たりにしたと感じたことだろう。 |