Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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ワンダーウーマン考 その5―東洋経済オンラインで掲載NGとなった記事について(2018.3.26)

























さて、Amebaに掲載しています私のブログ“Dr.MANAの『はだぢから開発室・分室』”「東洋経済デジタルの連載終了について(ご報告);2017/12/08」で申し上げました“ご説明”をする機会にようやく到達しようとしています。

メディアとはどんなもので、私たちはどうかかわっていけばいいのでしょうか?
いろいろな思いが頭の中を駆け巡っています。世の人々が数多(あまた)経験したメディアとの遭遇の一つの例として、私が関わった東洋経済オンライン連載終了の一件をご説明いたそうと思います。
正義と不義の二元論で語られる問題ではないことをご承知ください。私の浅学菲才、皮相浅薄は重々反省するに足ります。これらを明らかにするためにも、事の経緯をオープンして、皆様のご批判ご叱正をお願したいと存じます。

まず今回は、掲載NGとされた記事を以下にご紹介します。内容は映画『ワンダーウーマン』の映画評となります。

第37回:フランス人も魅了したアメリカ産ワンダーウーマンの魅力


“私はかつてこの美しい世界を救いたいと思っていた。けれども知れば知るほど、深い闇も一緒なのもわかるの。私は大昔にそれを思い知らされたわ。
                プリンセス・ダイアナ”


    かつてはバットマンやスーパーマンが風靡したアメリカンコミックのヒーローたち。いまや史上最強にして人気ダントツのキャラクター戦士はワンダーウーマンとなりました。ハリウッドものにアレルギーがありがちなフランスでも、高評価でヒットを飛ばしました。まぁ冒頭とラストを飾る、主人公が現代人として活躍している舞台がパリ。世界芸術の宝庫、ルーブル美術館なわけですから彼らは悪い気はしませんね。

    さてヒーローたちを凌駕する“ヒロイン”なのですが、ヒロインという女性名詞に抵抗を感じるのは、私だけではないと思います。ジャンヌダルクには思い込みという信仰心の強さはあっても、処女のまま天に召されたとかの“かよわさ”があります。けれど、ワンダーウーマンには男性への依存心なんかありません。ひたすら強く、そして飛びっきり美しい。ヒロインという言葉の中から「媚び」を吹っ切りました。これからのモテる女性像そのものです。
    女性監督パティ・ジェンキンスはこの大ヒットで続編製作にとりかかっています。2019年が待ち遠しい!

 ゼウスとアマゾンの子プリンセス・ダイアナであるワンダーウーマン。演じるは「世界で最も美しい顔100人」第2位だったイスラエル出身のガル・ガドット。造作は完璧、ときに可憐でキュート。全編を通しての大胆でアクロバティックなアクションはスゴイのひと言。それだけでも観る価値があります。
 イケメンの相手役スティーブ・トレバーはクリス・パイン。ダイアナの敵役ドクター・マルは渋いおとなしめのエレナ・アナヤ、悪の親玉を演ずるのは……(割愛します)。
 アメコミのハリウッド映画だけに、戦争と殺戮と破壊炎上はてんこ盛りですし、ストーリーに迷うこともありません。刺身のツマの、雪舞うラブロマンスも添えられており、第1次世界大戦の前線から天界の神々の聖域までを舞台とするスケールも大きく、ラストはスカッとするカタルシス娯楽巨編なのです。

 印象的なシーンがいくつかありました。ダイアナが幼いころの「神に守られたパラダイス島」での戦いの訓練、女性戦士たちの格闘がほれぼれします。女性が男装して戦うのではなく、気高いアマゾネスたちがボディラインそのままに戦います。馬から弓を射る際に飛びつつ反転する、女性特有の柔らかいカーヴの肢体の、しなやかで力強いエレガントな動き。うっとりする美しさでした。
 スティーブの操縦する飛行機が海に墜落し、ダイアナが助けるシーン。女が戦う男の命を助けるのは連帯と協調の予感であって、すぐにダイアナ自身がともに戦うようになります。
 監督の脚本と演出の旨さにうなったシーン。スティーブが多くの無辜(むこ)の人々の犠牲を阻むために自ら死を覚悟して告白する直前、巨大な爆音によってダイアナが音響外傷になり無音になるのです。スティーブが最期の言葉を告げるのですが、ダイアナには全く聴こえません。
    ほどなくして上空に爆発の閃光が轟きます。彼が敵機に侵入して自爆したのですが、まだ彼女は意味を知りません。けれど度重なる爆発音響を契機にダイアナの身体性は神レベルに駈け上がり、記憶が反芻され彼の口唇の動きを声に再現します。瞬時に、自分に向けられた唯一の愛と、命を引き換えにした彼の人類愛の双方が、ダイアナの中でインスパイアするのです。非常にリアルな感覚操作だと思いました。
 果てしのない戦いに救いがあるとすれば、それは“愛”です。愛の強さとは女と男が互いの尊敬と慈愛を共感することなのでしょう。それこそが監督の伝えたいライトモチーフだったように感じました。

 先月、スウェーデンのビルカにある偉大なるバイキング戦士の墓の被葬者が、実は女性だったというニュースがヨーロッパを駆け巡りました。墓は1000年ほど前につくられ、140年前に発掘されたのですが、墓の様式や武具などの副葬品から、被葬者はずっと男性だとばかり思われてきたのです。3年ほど前に遺骨の形状が女性としか思えないという発表がなされても、「複数の骨が混ざっていたのだろう」と一笑に付されていました。
    今回DNA調査でただ一人の女性の遺骨だったことが判明したのですが、研究者も「私たちは性別の役割分担について、常に自分たちの解釈を当てはめてきた」と反省しています。だって、女性戦士の存在は伝説の中に生きていたのです。

 勇敢な女性の強さはセンシュアルな感性を呼び覚ますものです。「美は表象ではなく意志である」とは、私が美意識について間断なく思索していた際に劇的に現れた言葉ですが、勇敢さを思えば「美は意志であるだけでなく、覚悟ですらある」がより的確かもしれません。ロマンですし、なんとも想像力を掻き立てられます。

 製作当初のころ、このワンダーウーマンは物議を醸し出していました。「その格好が男性目線である」「露出の大きい戦闘服が下品である」などです。ワンダーウーマンは“女性の地位向上のための国連名誉大使”をわずか2ヶ月で降ろされました。
 ステレオタイプの描き方はその通りでしょう。でも「エ・アロール(それがどうした?)」なのです。そもそもコミックではありませんか。美の基準は時により所によって変化していくものです。今はまだ、アメリカ型美女の美意識が世界のスタンダードなのであり、(芸術家は果敢に挑戦すべきでしょうが)クレヴァ―なビジネスウーマンが世のトレンドに逆らうのは愚かなことだと思います。
 女性らしさをデフォルメしたコスチュームやスタイルを、女性監督が推進しようと思っているはずはないのです。世間の注目を浴びるために、あるいは35億の男性たちの歓心を買うためには、致し方ないことではありませんか?

 実際に映画を観た感想としては、性的な歓心を買うほどのことはありません。ドイツ軍との攻防の前線で、いきなりワンダーウーマンの戦闘服にチェンジしたときは、「えっ、ここでその格好!?」とは思いましたが、それもご愛敬です。リアリズムではありません、なんたってアメコミなんですよ。身体屈伸、開脚前進、跳躍運動のためには適切なのではないかと、失笑いたしました。

 美しさは暴力です。それだけでも屈服せざるを得ないのですから、勇気と人間離れした身体性(神の子ですもの!)をもてば完全勝利は間違いありません。そのことを言葉ではなく、センシュアルに体感できる映画だと感じました。
    野蛮な力による「美しくはない暴力」は許してはいけないのです。ワンダーウーマンのダイナミックさは不可能ですが、不正の力に立ち上がる勇気を失くしてはいけません。身近の愛する誰かを救う力をもつようになりたいものです。といった気持にさせてくれるフィルムであります。

    時代はセクシーからセンシュアルへと、確実に変化してきているのです。