Dr.MANAの南仏通信〜フランスのエスプリをご一緒に…〜
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ステップファミリーの痛ましい事件に思うー覚悟せよ。女性たちよ。(2019.10.18)


ステップファミリーとは
 昨年3月の目黒5歳女児虐待死事件に、悲痛な思いでクマやライオンの子殺しに触れた記事を書いたことがありました。(→★1★2)9月には埼玉市小学4年の男児が継父に殺されました。あるいは連れ子の少女に関係を迫って殺害して自殺した父、長年同意なき性交を強制していた義父への無罪判決など。潜在している状況は大変なものであるのに、問題が放置され看過されてきたように思います。この問題――ステップファミリー(stepfamily)について考えてみました。
 ステップファミリーとは複合家族、つまり「血縁でない親子や兄弟姉妹関係を含んだ家族」のことです。端的にいえば、どちらかまたは双方に子どもがいて再婚し新たにつくられた家族。たとえば、死別しての子連れ再婚、離婚による子連れ再婚、未婚ながら連れ子がいる結婚、一方に連れ子がいる再婚及び双方に連れ子がいる再婚。さらに夫婦の一方が過去の離婚時にいた子と面会交流のある場合などもそうです。
 ステップファミリーの数はまだ統計値がありません。同棲や共同生活といった婚姻に限らない”家族”も多いと思われます。ステップファミリーの前提である(母子家庭または父子家庭で子どもが未成年である)ひとり親世帯の数は、最近の厚労省調査でほぼ85万程度です。また、結婚総数のうち一方または双方が初婚でない再婚率は25%強です。

家族制度の崩壊
 パッチワークファミリーとも言われるように、ステップファミリーと初婚家族とは成り立ちだけでなく、抱える問題もまるで違います。多岐多様でとても一概に論じられません。
 日本は敗戦を機として社会的大変動が起こりました。家族制度や女性の地位などは、変わった最たるものと思われます。戦前まで日本は天皇を家長とする家族国家であり、家々は一族をなし、一族は本家の当主が頂点となって多くの分家を率いる大家族でした。一家は家長が家族の生活のすべてを統制しました。当主や家長は長男子が継承し、家族の結婚も財産の取得も家長の承諾なしには行われず、生殺与奪の権を一身に担っていました。
 大家族制度は農村共同体から発生したというより、東洋的な儒教思想がバックボーンとなっています。儒教は血縁の程度によって親疎を区分し、親族と他人との間を峻別します。親族は相互扶助組織であるとともに、「家」という抽象に人間を服従させます。子どもは家のものであって、両親や社会のものではなく、本人の意志すら親族会議の決定に抗うことはできませんでした。 戦後憲法下の民法はこうした封建的遺物を法律的には一掃しましたが、社会は法律ではなく蓄積された習慣文化(それを「世間」という)の変化よってしか改まりません。しかも「世間」の変化はきわめて徐(おもむろ)です。良妻賢母養成の女子教育は今もって継続していますし、新しい時代の女性を創造するような学校はまだどこにもありません。
 家族制度が崩壊したのは法律ではなく、高度成長経済がもたらした人口都市集中と核家族化の結果です。今は継父の虐待ですが、昔は継母(ママハハ)のイジメがクローズアップされていました。子は家のものでしたから、離婚の際には嫁が去り子は家に残され、新しい女が母となっていたのです。継父の問題は進行中の事柄ですが、バブル破綻後のデフレ経済――正規から非正規への雇用転換――格差社会と日本の斜陽といった脈絡で説明できます。

女性への抑圧
 核家族化や両性の平等など制度的な変革は進行しましたが、女性の地位は本当に向上したと言えるのでしょうか。「そうではない」と答えるしかないのが現状です。
 アメリカから始まったセクハラ告発とUnconscious Bias(無意識の偏見)への啓蒙運動である#MeTooは、一昨年以来欧米諸国を席捲しています。それでも地球規模からみれば微々たるものでしかありません。「韓国が日本より先行している」と述べた私のコメント(→)だって、欧米では「えっ、#MeTooはアジアでも話題になっていたの?」と驚かれるような始末なのです。未だに「女は男に媚びるもの」が世界の常識なのであり、「男を立てて得するのが人生成功の近道」と思っている女性の深層心理は揺らいでいない――と言っても、強ち虚偽と切り捨てるには無理があるように思います。

ステップファミリーの女性
  ステップファミリーは(法的婚姻は別として役割的呼称として)夫と妻及びと子によって構成されています。子どもの思春期以降にはいろんなことがあるとしても、一般的に被害者とされる場合はあっても問題の当事者ではありません。旧弊な家族観がなくなったのですから、夫妻の実家や親戚も無関係と言っていいでしょう。
 それでも女性への抑圧はまだ残っています。一方的な差別というより、アンコンシャス・バイアスとして世間や男性に迎合する女性自身、それを当然視している執拗な旧社会の残滓として。結果はステップファミリーにおける妻(同棲する女性側)に、葛藤と矛盾が集約されることとなります。
 SNSあるいはWEBなどを眺めると、様々なストレスが訴えられています。----相手の連れ子への愛情が湧かない。/継子の実母や親族との関係性。/子どもの躾について意見が合わない。/それぞれの家族の習慣の相違への戸惑い。/世間や周囲に対する正直に説明できないもどかしさ。/家族のまとまりが希薄である。/親や親戚への対応がわからない。/結婚しただけで子は相手の子にならないので養子縁組問題。/家族が多くなって増えた家事育児の負担。/パートナーの無理解、など。
 フランスの家庭人となった友人に訊くと、夫妻のどちらであれ実子と継子への愛情の差はないと断言します。よもや「血の繋がった子の方が可愛いのは当たり前でしょ?」などと公言したおりには、「人間失格」レベルの冷ややかな視線を周囲から浴びせられることでしょう。血縁によって愛情に差をつける儒教倫理と、神の前の平等を説くキリスト教道徳の違いなのでしょうか。 欧米社会におけるタテマエとホンネの甚だしさは身に沁みています。例えば「レイシスト」、このレッテルを貼られたら、誰もが自分の人生が終わることを知っています。Racistとは人種差別主義者のことです。では、なぜ人種差別はなくならないの?――ニューヨークに長年暮している友人は「ここは人種ではなく人種差別の坩堝なのさ」と苦々しく吐き捨てました。一筋も二筋もいかないのが欧米社会なのでしょう。

女性の覚悟
 問題はどこにあるのでしょう? 「血の繋がった子が可愛いのは当然」、「シングルマザーも女として性愛を求める権利がある」、「就業に不利益のある子持ち女性が生計の安定を求めたらいけないのか」。――私はすべてを肯定します。しかし、その前に考えることがあるはずです。
 人生相談みたいなWEBとかで、新しい男性と結婚するに際して「あなたとの子は産めない、なぜなら元夫との子が不憫になるから。それでもいいなら結婚する」と条件をつけろと勧めていました。こうなると、新しい夫はセフレのミツグ君(言葉のシーラカンス!)でしかありません。いくら子どもがかわいいか知れませんが、開いた口が塞がりません。
 もちろん、ステップファミリーのほとんどは、連れ子の虐待死やセクハラに無縁です。ごくごく一部における事件があまりに惨いことで、すべてが色眼鏡で見られることは途上国的に過ぎるとは思います。
日本のシングルマザー状況はたしかに酷い、なにより社会の成熟が必要です。それまでの間は児相のような公権力の積極的介入も止むを得ないと思います。児相はまだ自らの目的と任務への自覚足りません、期待はしませんが奮起を望みます。

 公の機関への叱咤激励みたいな迂遠なことより、手っ取り早く簡便に、すべてを解決できる鍵があります。それがなによりも大切なことです。しかも当事者は気づいていないようなのです。
 日本のステップファミリー問題の解決には、社会の成熟を待たなければならないと述べました。根本的には人々の意識の変革が必要です。欧米先進国がこの問題をクリアに解決しているとは思っていません。それでも「ホンネをこもごも漏らす社会」と「モラルがホンネの表現をさせない社会」とでは、どちらが人間の差別に真摯に向き合っていると思われますか? だから、せめて先進国なみの成熟が欲しいのです。

 冒頭に述べた、もっとも悲惨な状況を回避する鍵は実はシンプルです。当事者であるステップファミリーの妻が――さらに具体的にはステップファミリーを選択しようとするシングルマザーが、“覚悟”すればいいだけです。ステップファミリーの矛盾もストレスも、すべての問題が究極として、もっとも弱い環である当事者の女性に集中しています。だからこそ女性が覚悟すれば弱い環は強い環となり、強靭な連結器に転化します。ラグビーのスクラムで組み合うことをバインディングと言いますが、相互を結びつける力が強いほど全体は堅固な一塊(ひとかたまり)なって強さを発揮します。
 覚悟とは「今からステップファミリーを構築すること」であり、子どもが可愛いのは当然なのだから「血が繋がろうと否とを問わず幼い命を守り抜くこと」であり、女として性愛を求める権利があり、また家族の生計安定に努力する義務もあるのだから「安逸に流れず勤労に励むこと」なのです。さらに、家族となる男性に対して覚悟を要求することも忘れてはなりません。ともに家族を作り上げ、ともに幼い命を守り、ともに豊かな家庭を築いていく、その覚悟。「覚悟しなかったら、あんた覚悟しなさいよ」なのです。  いくつかの事件では、手が差し伸べられていたのに偶然の幸運を願って最悪の事態となった例もありました。命の火が尽きるまでに、いくらでも逃げることができ、救いを求めることはできたはずなのです。覚悟さえあれば、意思決定をした当事者である自らとパートナーはどうなっても、innocent(無垢)な命とその未来だけは毀損しないものなのです。

 社会が変わるには時間が必要でしょう。しかし血が繋がっていなくとも、縁あって親となり子となってくれたのです。人の子の親であり、人の親の子ではありませんか。人として愛し、人として慈しむのも覚悟です。
 人間とはそういうものとして生まれ、慈しまれ、大きくなってきたことを忘れてはいけないことなのでしょうね。